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久しぶりにチチエセを掲載する。 描かれる風景は、僕にとっても思い出深いものだ。 しみじみ味わう余裕は今はあまりないが、 こうして肉親の文章を読むと、ジワリと脳裏に その情景が浮かんでくる。 中学高校の5年間、通学時に毎日窓から見つづけた瀬戸内海の穏やかな海をバックに、 その建物はたたずんでいた。 今は舞子のあたりもすっかり開発され、昔の物悲しいような、ポツンとした風情は 望むべくもないが、新しい景色の中にも、確かな存在感を示しているようだ。 「夕映えの移情閣」 マリンピアからアジュール舞子の遊歩道を戻ってくると、茜色に染まる「夕映えの 移情閣」がいつもとは違った風情でそこにあった。 時間があると、ふらりとやってくるこのあたりは、私たち夫婦お好みの散策と憩い の場所になっている。 私が始めて「移情閣」を知ったのは、舞子の先輩のお宅に遊びに行ったとき だった。 散歩がてらに出かけた舞子の松林の中に、エキゾチックな三層八角形の楼閣があった。 海峡大橋そばの今の場所からすこし東にあって、昭和三十九、四十年の台風にやら れる前の「松海荘」と一緒にあったころだった。 中に入ると、造りは西洋風でありながら中国風デザインの置物や調度品が一 杯あり、そして「移情閣」と書かれた額や沢山の扁額が掲げられていたことが大変 印象に残った。 明治から大正にかけ、日本には沢山の華僑が活躍していた。 三十一歳で日本にやってきた華僑の呉錦堂は、神戸を拠点に貿易で財を成し 景勝の地、舞子に「松海荘」という別荘を作った。 千九百十五年(大正四年)、その隣にもう一つの建物を増築したのが「移情 閣」だった。 西洋のデザインの中に、巧みな日本の職人技で中国の魂を織り込み、期待に 応えた立派な建物となった。 困難を乗り越えて故郷から遠く離れた土地に根をおろし、そこに溶け込んで 生きるという意味の「落地生根」という言葉を華僑の人達はよく口にするという。 呉錦堂は、明石海峡を一望するこの舞子の風景に、遠く離れた故郷を慕う情 緒をたくして「移情閣」をつくり「落地生根」の生き様を形に表そうとしたのかもし れない。 中国革命の父、孫文夫妻が国賓として訪れたことを記念し、「移情閣」は「孫中山 記念館」という名前ももっている。 話は一寸横道にそれるが、神戸の私たちの周りには今でも沢山の華僑の人達 が、実によく溶け込んで住んでいる。 勿論彼ら自身の努力のほうが大きいのだろうが、もう一つの重要なカギは「食」、 つまり中華料理がおおきな役割を果たしているのではないかと思う。 中華料理ほどインターナショナルなものはなく、世界どこでも必ず店が見つ かる。 私も、元町界隈の路地の奥にある華僑たちのちょっとした店を探訪するのが 大好きだ。 先日、舞子の浜を一緒に散歩したあの先輩の突然の訃報に接した。 祭壇の遺影の前には、大好きだったチューハイとともに一枚のスケッチが飾 ってあった。 そこには、大橋が無かった頃の海峡の広がりを前にした、茜色に染まる「夕 映えの移情閣」が、彼の見事なタッチで描かれていた。 呉錦堂が夢見た故郷への思いを知る由も無かったと思うが、それでもそのス ケッチは、一人の神戸を愛した老華僑の「切なる心情」を十分すぎるほど私に伝えて くれた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.07.12 01:09:21
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