山を遡上する鮭
あとどの位歩けば空に会えるのだろう。岩と瓦礫が積まれた沢筋の登山道は植林と雑木林に囲まれて暗く、明るい兆しはなかなか見えてこない。ちょろちょろと流れる水をよけて歩きながら、この沢筋に水が溢れていた頃を想像してみる。暗い川底を彷徨っている河鹿。青空に誘われて懸命に浮上しようとしている岩魚。否、川を登っているのだ。故郷を求めて遡上する鮭のように。そんな思いに耽りながら黙々と歩くこと数十分、頭上に遠く点在していた空が行く手の木の間に見えてきた。冴え冴えとした輝きを放っている空を眺めているうちに喉の渇きを覚える。山頂に着いたら美味しい水を飲もう。そんな思いつきに俄然体が元気になる。無心で最後の急登を登りつめると一気に視界が広がった。水色の光に覆われた小さな山頂は海にせり出した岬の灯台のようだ。口を大きく開けて、この山の一番てっぺんの、一番美味しい空気を吸い込む。空気が体中に浸み込んでゆく。乾いていたのは喉ではなかったようだ。山の空気が体内を一巡した頃、体はふっと軽くなり、頭は憑き物がとれたかのように晴れやかになる。山の青空に網膜の不浄を洗い流された瞳は青空のように澄み切っていることだろう。心身を貫く爽快さを感じながら周囲を見渡した。有名無名の山並が空を区切り、眼下には空色の市街地が広がっている。水色に染まった市街地は海底のようだった。海に縁のない県の山の上にいるのに、連想するのはなぜか海のことばかり。私は海底からここまで登ってきたのではないか。山頂の美味しい空気を吸うために這い上ってきたのではないか。そんな思いが私の脳裏を横切るのであった。海底のような街を車で走り、河口の登山口へ赴き、美しい空と水のような空気に焦がれて登って行く。山頂でこの上ない空気、光、空を目から口から肌から吸収し、全身にまっさらな山の明媚を蓄えて山を下りる。そして心身に備蓄した明媚が底をつく頃再び山を目指すのだ。何度でも何度でも。空と光で満ち溢れている山頂にいつしか焦がれるようになった。祠を構えた灯台のような山頂は私の第二の故郷となったのだ。行かなくては。還らなくては。故郷に還ろう。故郷に焦がれる鮭のように。