皇女の名前や姿によって、時代考証は可能かどうか?
やっとのこと、論文が書きあがりました。プレゼンと同テーマだったので、プレゼン準備の時点で、すでに形は整っていたのですが。それにナンダカンダ付け加えて、最終的に仕上げて提出してきました♪鬼教授が、「あら、良い出来じゃないの。」と、ぱらぱらと読んだ後に言ってくれたのが嬉しかったですね(*^o^*)(鬼教授でも褒めるのね…とか驚いたことはナイショです。)というわけで、内容をここでちょっと紹介。(興味の無いかたは読み飛ばしてね。)18王朝に王になったアメンホテプ4世と、その最愛の妃ネフェルティティが結婚したのは恐らく、まだアメンホテプ4世が王になる前のことだったと言われている。アメンホテプ4世が治世5年に、アクエンアテンという名に改名し、ネフェルティティ妃がそれと同時期に、ネフェルネフェルアテン・ネフェルティティと改名。そして、首都をアケトアテン(現在のテル・エル・アマルナ)に移動させた。王と王妃の間に生まれたのは、6人の娘。息子は無し。この娘達の墓、ミイラ共々、発見されていない。一説によれば、王には息子が居て、それがツタンカーメン。彼は、王とネフェルティティ以外の妃の間に生まれた息子らしい。アメンホテプ4世の次に王になった、スメンクカラーという王がいるのだが、この王は「アクエンアテンに愛されるもの」という称号を持っていることから、スメンクカラーもツタンカーメンの息子であったかもしれない…と言われているがこれもまた定かではない。アクエンアテンとネフェルティティの第一皇女、メリトアテン(Meritaten)。彼女は、まだアメンホテプ4世とアクエンアテンが名乗っていた頃、つまり治世5年より前に生まれたことが確かになっている。そして、テーベ(現在のルクソール)にあるカルナック神殿の一角に、アクエンアテン、ネフェルティティ、メリトアテンの3人を描いた壁画が残っている事から恐らくメリトアテンは、治世2年あたりに生まれたものと考えられる。第二皇女、メケトアテン(Meketaten)が生まれたのは、遷都後のこと。初めて彼女が壁画に姿を表すのは、治世5年辺りに作られたBoundary Stela(都の境界を記す為の石碑)の一つ。両親、姉と共に、アテン神に礼拝している様子が描かれている。第三皇女、アンケセパーテン(Ankhesenpaaten)が生まれたのは、メケトアテンより約1年後。他のBoundary Stelaに名前を残していることから、まだ遷都して間もない頃(姿は既に劣化して見ることが出来ない)つまりは、治世6年辺りに生まれたものと考えられる。第四皇女、ネフェルネフェルアテン・タア・シェリット(Neferneferaten-ta-sherit)が生まれたのは、それから数年後のこと。彼女は高官、メリラー(Meryre)の墓に描かれた壁画に初めて姿を現す。第五皇女、ネフェルネフェルレー(Neferneferure)はまたその数年後のことで、恐らく治世8年くらいのことだったと考えられる。彼女が姿を現すのも、高官メリラー2世(MeryreII)の墓にある壁画の一部。第六皇女、ソテップヘンレー(Sotephenre)は、それから数年後の治世12年、ヌビア地方からやってきた人々が、王に謁見しているシーンに始めて姿を現す。この壁画は同じく高官メリラー2世の墓に描かれている。この時期、既にかなり育っているように描かれていることから、恐らくネフェルネフェルレーよりも1、2年遅く生まれたものと思われる。治世13年のある時期に、第二皇女であるメケトアテンが死亡。出産時に無くなったらしい。王族の墓の一部に、彼女の葬式の場面が3つほどあり、(Royal Romb; Room Alpha Wall F, Room Gramma Wall A, Room Gramma Wall B)全ての人が悲しみにくれている様子が描かれている。このうち2個の壁画には、王と王妃が描かれているものの、他の皇女達の姿は無い。そして面白いことに、この二つの壁画には、一人の赤ちゃんが乳母らしき女性に抱かれて描かれている。この赤ちゃんに関する説明は、一切欠落している。(恐らく初めから書かれて居なかった)この赤ちゃんが一体誰なのかということで、色々な議論が交わされている。王と王妃の間に生まれた子供だろうか?メケトアテンの子供だろうか?他の皇女の子供だろうか?どの説にも確たる証拠は無い。が、最も有力とされているのが、メケトアテンの子供という説だ。その理由は以下の3つ。1.メケトアテンが出産時に亡くなったということ。2.もし、この赤ちゃんが王と王妃の子供だとしたら、 それなりの称号や名前が描かれているべきであるし、 他の皇女と同じく、壁画に現れているとは考えにくいのではないか。3.他の皇女の子供であるとしたら、その子供を描くと同時に、 その母親であるべき皇女も描かれているはずではないか。もっとも、どれも説であるわけで、証明することは出来ない。私が今回の論文の最終的テーマとして掲げていた問題は『皇女の名前や姿によって、歴史的事実の時代考証が可能かどうか』ということである。私がリサーチの末に導き出した答えは『可能である』ということだ。私が調べ上げた全ての壁画(つまり現存するアマルナ時代の壁画全て)に、皇女を描いた多くのものが残っている。それらは全て、第一王女から順に全員の皇女を描いている。ひとつとして例外は無い。つまりはこういうことだ。現れている皇女の順に壁画を見ていくことで、作られた順がわかるのだ。例えば、アンケセパーテンまでが描かれており、ネフェルネフェルラー・ター・シェリットが描かれていなければ、それは第三皇女が生まれてから第四皇女が生まれる前のことだと解る。メケトアテンのみが欠けている壁画は、治世13年に彼女が亡くなった後、描かれた、または作られたものであるということが確実になる。 どうでしょうか。私のやってきたことがちょっとは見えたかな?