|
カテゴリ:スピリチュアル
例えば、パートナーや家族から虐待を受けたりしてる人は多い訳ですが、人生は成長のための試練の場なのだから、その状況に耐えることが正しいのでしょうか。私は全然そう思いません。
また、誤解されがちなことに、相手はソウルメイトなんだから耐えるべきとか、耐えて学ぶべきという考えも間違いです。ホントに分身であるツインソウルなら虐待なんかしないのです。過去生で何度も繰り返し遭遇してる魂は珍しいものでもなく(もし、それをソウルメイトというならですが)、それ自体価値あることではないのです。 問題は、生産的な関係を育める関係かどうかです。苦しい環境に自ら陥って、全てを回りのせいにして、抜け出す努力を怠り、安心しているケースが多いのです。学ぶべきは逆境から脱する強さを勝ち取る闘いだと思います。 そこでは、主体性が薄い人には自力で闘うことが学びですが、自分などの様に、「過剰な私」をもつ生まれの者にとっては、自分との闘いだけでなく、次のステージとして「人を信じて頼ってみる事ができるか」っていう課題も浮上してきます。感受性が豊かな人ほど、今の社会では人から愛される実感が得られず、人を愛したのに傷つけたりして自己不信にさいなまれるプロセスを経ます。 そこに落ち込んだままで自己憐憫に浸っているのか、それとも自らを見つめ直し、自分愛し、いたわることを重ねて自己不信を消し去り、ようやく人も信頼できるようになっていくステップを選ぶのかは、私達の選択に委ねられています!人生での学びの設計図である「ブループリント」にはたくさんの余白があって手直しが出来るのです。 虐待など現在、逆境にいるならその相手に従うのでなく、相手は虐待で主体性を維持している事に気付きましょう。あなたから相手と離れる努力が、相手にとってもあなたにとっても学びのプロセスです。実は虐待される側も共依存関係である場合もあり脱するのは困難でしょうがそれが学びの場なのかも。 と・・・私の言葉ではないような言葉たちを連ねました。 ただ、もうひとつ言うと、虐待されている子供たちには自力で脱出する選択権さえありませんよね。その子達もその生まれを学びの場として選んで生まれてきているとしても、余りに悲惨です。愛し愛されるべき親からの虐待。精神的な虐待、ネグレクト・育児放棄。他人事ではないのです。虐待者を非難してる場合ではありません。虐待する人の心を形づくっているのは私たち自身の日ごろの行動の積み重ねです。虐待以外のゆがんだ心理ゆえの犯罪者にしても、何でそんなことを!と非難してしまいがちですが、全て一人一人の心のありようの積み重ねが生み出したものです。ヒトに関心を持ち、助け合うことをしなければ、いずれそのツケは、巡り巡って私たちめいめいにも降りかかってくるのです。それがすべての魂は元はひとつということの意味でもあると思うのです。私自身は余り人のことに干渉したり、「小さな親切大きなお世話」は嫌いですが、困っているヒトを助けるとか、お互い様の助け合いは、過干渉とは違うと思います。そのことにハヨ気づかんかいっという天からの最大の啓示?が地球温暖化による人類破滅の警告だと最近は感じています。温暖化は自分さえ良ければ、の積み重ねですからね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[スピリチュアル] カテゴリの最新記事
|