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カテゴリ:スピリチュアル
日本人は古来から、なんで鏡をご神体として拝むんでしょうか。
鏡は勾玉(まがたま)や剣(つるぎ)と並び三種の神器とされます。 神道ではご神体として鏡が収められています。 正月には鏡のような丸い「鏡餅」を飾って祝います。 外国でも鏡は魔法や魔よけ、異空間の入り口などとされます。 その不思議さの意味について考えてみます。 神棚に手を合わせると正面にご神体鏡があります。そこには私たち自身の姿が映り、 知らずのうちに、私たち自身の姿も拝んでいるのです。 神様を拝みながら私たち自身をも拝んでいたのです。 この意味はなんでしょう。 神様は自分と離れた存在でなく、私たち自身に神様の性質があるということでは ないでしょうか。 しかし、大切なことは、鏡に映った姿は自分ですが、実物とは左右が逆なのです。 手を合わせる人の左右のバランスが崩れていれぱ、拝む人の姿と鏡に映る姿は離れて しまいます。 自分の姿をご神体に映った姿と一体化できるのは、左右がバランスし調和した姿。 このバランスは仏陀の中道(ちゅうどう)、孔子の中庸(ちゅうよう)と通じます。 そして、この左右のバランスとは「陰陽」の調和がとれた姿ではないでしょうか。 陰陽の調和こそ神そのものと一体化した姿。 天も地も、火も水も、善も悪も、光も影も、男も女も・・・。バランスの取れた姿。 さてそうなるためのヒントは・・・。 「鏡:かがみ」から「が」を外せば「かみ」となります。言霊(ことだま)の不思議です。 その外した「が」とは「我」のことではないでしょうか。 鏡に映る姿を神に合わせるには、心の「我」=エゴを手放さねばならないと示しています。 「我」=エゴを手放すことでアンバランス、不調和の種も手放せるのです。 どんな見栄えの人が拝もうと、その人自身の中に調和が取れていれば、ご神体の鏡に 神の世界が映ります。 調和の取れた神の世界は人それぞれ、みな違った形であるものです。 どうでしょうか、こうしてみるとわが国古来の「神道」ってすごくないですか。 鏡をご神体にする意味は、偶像崇拝とは違うものがあったようです。 --- 鏡は銅の鋳造品である「銅鏡」が古く、青銅鏡、鉄鏡となっていきます。 銅鏡はエジプトの第6王朝(紀元前2800年)には既に手鏡のようなものとしてあったそうです。 日本には弥生時代中期に中国大陸から朝鮮を経て伝来しました。国産の鏡が作られたのは弥生時代後期で、奈良時代には技術も進歩し中国(唐)製に並ぶほどでした。 その後、青銅鏡、鉄鏡に変わります。手入れが大変なようですが、神具としては今でも銅鏡が用いられているといいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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