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カテゴリ:日々雑感
もうちょっと若い頃、
「実は、やりたいことが絞り込めてないんじゃないの?」 と心配されることがたまにあった。 気にとめてもらえるのは非常に嬉しい。 が、そのころ私はふと考えていた。 「昔の人って、そんなに物事を絞り込んで生きてきたのか?」と。 戦時中など特殊な事態の中では、絞り込む余裕もないだろう。 では、江戸時代はどうだろう? 平安時代は? 時代背景によって大きく異なるだろうななどと。 私はのんきな瀬戸内の小島にある柑橘農家に生まれた影響もあるからだろうが、 極端な話、死ななければいいぐらいにしか考えていない。 例えば、作物で考えてみよう。 桃は天候によって大きく収穫が変わる。 台風なら全滅、好天でほどよい湿り気ならすごくおいしくなる。 前者なら、農家の年収なんていくら働いても0円なのだ。 降者なら、大儲けである。 作物の生き死には人の生死にも関わってくる、しかし大丈夫。 人はそんなに弱くない。いい頭と生命力があるから。 翌年の不作を考えて、食料を備蓄するのもリスクを避ける手段。 玉ねぎを干し、米もストックして、漬物を漬ける。 絞り込みのやり方、それは人によって大きく違うと思う。 私が、 「旅がしたい、写真を撮りたい、文章を書きたい、あの山へ行きたい」 と思ったのは、すべて小学校の時読んだ旅の本の影響だ。 気づくと、そのエッセンスがすべていまの仕事に活きている。 (ほんとはもうひとつあるがここでは割愛する) たいして教育理論とかは知らないが、 絞り込もうとする前に原体験が勝手に、かつ大きく影響しているはずだ。 だから、「こうやって絞り込め」というのは都会のセンスではないか。 たしかにフォーマットとして効率はよい。 ただ、「自分を探して、どこかにあるのかな?」という気はする。 それは職業への固定であって、人間的な進化の否定ではないか。 別に「夢を、希望を」って言いたいわけでなく、 それは勝手についてきているはずなのだ。 それに逆らうと辛くなるんじゃないかな。 人生は拡散するものだと私は思う。 それは自分を軸とした拡散。あえて絞ってなくても、 「こんな感じかな~」っていうちょっと太めでラフな軸はできている。 そうして行動した結果、パッとしなくても、それも本望。 来年の収穫に賭けましょう。 拡散するものだと思わないと農家になんていれません。 「今年の桃はいいのができるんだ」と毎年強く思わないと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 25, 2006 06:35:06 AM
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