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カテゴリ: 怒りの大河を超えて、政治に笑顔が戻るまで
「言論の自由」には「反論も自由」である。
いやいや、 「言論の自由」には「反論を受けて立つ責任」がある。 不充分で誤解を惹き起こしたら、訂正や補足は当然だ。 異なる意見には耳を傾け、比較検討することも必要だ。 言いっぱなしは、よくない。 「うそ・おおげさ・まぎらわしい」は、言論の自由の衣服をかぶった迷惑でしかない。 「私がそう思ったんだから、しょうがないじゃないですか。」は、意見ではなく感想です。 そんなことばっかり言ってると、記憶には残っても、尊敬されない政治家にしかなれないぞ。 ちなみに 以下の発言には、検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して「発言」の信頼性向上にご協力ください。 「地獄の民主党政権」 公人としての国会議場での「意見」であれば、個人の感想ではなく、内容を裏付ける出典を明示してください。 実際の地獄って、死にたくても死ねないほどのひどい状況ではないのでは? という意見も聞こえてきます。 安倍コンキカギリ首相は、『日本が平和憲法を放棄して参戦する状況』と、『原発がなかなか面倒な状況ではありながらもコントロールできているとウソぶける状況』の、どちらがより「地獄的」であると判断されているのでしょうか。 思ったことを述べてよいという理屈では、ヘイトスピーチ法案なんかはザルじゃないか。 「ちびのロケットマン」 「ロケットマン」は、一つの語句が複数の意味・職能を有します。曖昧性の回避のための追加情報を求めます。 仮に、チビが身長145センチ内外だと想定して、そのサイズで飛行機能をも兼ね備えるとしたら、なかなかに高等な技術ではないでしょうか。 トランプ”次期もあるかもしれない”大統領は、決してチビではない体格をお持ちですが、なぜ、チビのロケットマンと、同じ目線の高さで対応されるのでしょうか? wikipedia で「ロケットマン」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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