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飛鳥京跡:二つ目の正殿跡発見 天皇の神格化を意図 天武の「内安殿」か /奈良
今度は毎日新聞より。 あ、そうそう。 考古学のニュースの記事は毎日新聞が結構面白いです。 ◇塀で人の立ち入り制限 明日香村・飛鳥京跡の内郭(内裏相当区画)で、斉明朝から天武・持統朝(7世紀後半)にかけての二つ目の正殿跡が見つかった。昨年確認された正殿跡の北側で、ほぼ同規模・同構造の「ダブル正殿」が並び建っていたことになる。天皇のプライベート空間の色彩が濃厚で、壬申(じんしん)の乱(672年)で勝利し、天皇中心の中央集権国家を目指した天武天皇の神格化をもしのばせる。「菊のカーテン」の内側は--。 日本書紀には、二つの正殿のことを思わせる記述がある。681(天武10)年正月、天武天皇が「向小殿(むかいのこどの)」で宴を催した日、親王・諸王は「内安殿(うちのあんどの)」に入り、諸臣は「外安殿(とのあんどの)」にはべったという。686(朱鳥元)年正月には、天武天皇が「大安殿(おおあんどの)」に出て、諸王卿を召して宴を催したとある。 調査を担当した県立橿原考古学研究所の林部均・主任研究員(考古学)は、今回の正殿は南の正殿より地盤が低く、階段もない点に注目する。「南の方が人を引き入れて公的な儀式をした建物。その背後にある今回の正殿は塀を建てて人の立ち入りを制限しており、より私的な建物だ」として、今回の正殿が内安殿、南の正殿が大安殿とみる。 天武天皇の皇子は草壁皇子ら10人、皇女は7人。天武天皇は豪族の大臣を置かず、皇子たちに政治を補佐させた。和田萃(あつむ)・京都教育大教授(日本古代史)は「天皇や皇子・王が入れたのが今回の正殿。諸王卿を召した大安殿が南の正殿だと思う。規模と形は同じでも、外観はかなり違っていただろう」と、宴の参加者の身分の違いを指摘する。 天武天皇には皇后(後の持統天皇)を含め妻が10人もいた。木下正史・東京学芸大教授(考古学)は「皇后や妃(きさき)、女官が住んだ後宮的な建物ではないか」と考える。 一方、後宮が成立するのは平安時代で、妃や女官は内裏に相当する内郭の建物にはいなかったとみるのは瀧浪貞子・京都女子大教授(日本古代史)。壬申の乱で夫の天武の挙兵に付き従い、政権奪取後も夫の政治を皇子と共に支えた皇后・持統の絆(きずな)の深さを指摘し、「今回の正殿で天武、持統が一緒に過ごしていたか、南の正殿で天武、今回の正殿で持統が住んでいたかのどちらかだろう」と想像する。 ◇宮中枢部の建物配置、「平城」「平安」に影響 飛鳥京跡の内郭の中枢部に、同規模の正殿が二つ並んでいたことが判明した。二つの正殿の南にはやや小ぶりの「前殿」があることが過去の調査でわかっている。この建物配置は後の宮の原型ともみられる。 奈良時代初期の平城宮の内裏でも、ほぼ同じ大きさの大型建物が平行に南北に並んで建っていた。平安宮の内裏には、南から北に向かって順に、儀式を行う公的な紫宸殿(ししんでん)、天皇が寝起きした仁寿殿(じじゅうでん)、後宮である承香殿(じょうきょうでん)の3棟が並んでいた。 天武天皇は、好きな天皇なので、非常に興味があります。 (宇宙皇子の影響・・・懐かしい) しかも、恩師が・・・! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.03.11 00:46:22
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