テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:『義経』
日曜日は、20時からの総合に続き、22時からのBSでも見たものの、いずれも途中で寝てしまった。単に僕自身が疲れているだけなのか、それともやっぱり退屈なつくりなのか。正直言って少々萎えかけていたのだが、後日時間を作って録画をもう一度見てみたところ、ようやくある程度の感触を得た。
遮那王は成長してタッキーに代わったが、自らの生い立ちを聞かされた幼い頃の衝撃が、今でもずっと尾を引いていた。かといって、鞍馬山中にあってはそれを確かめる術はなく、解決の糸口もない。そもそも何をもって解決というのかもわからない。かえって苛立ちがますます募るばかり。鬼一法眼にその思いをぶつけ、閉塞を紛らすかのような鍛練の日々を送る――ある意味、実に説得的な流れだ。義経という人物を語るには、彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたはずの鞍馬時代の描写が不可欠となろうが、この物語においてはそれが今回の話で一気に果たされた。鞍馬時代が義経の戦闘能力および軍略の基礎を作ったということが示され、また、そうした鍛練の動機付けとなった自らの苦悩は、今後彼に絶えずつきまとうであろうということも予感させる。 どうやらこの物語では、「悲劇のヒーロー」という最も支持が得られそうな義経像にストレートに迫ろうとしているようだ。実をいえば僕自身が義経に対して抱いていたイメージというのは、「軍事以外はまったく幼稚ないし痴呆」というどちらかといえばネガティブなもので(司馬遼太郎が書いた「義経」がいちばんしっくりくる)、このドラマの捉え方とは異なる。たとえば、遮那王が兵法を独学するシーンがあったが、僕のイメージからすれば、彼はあくまで戦場での一瞬のひらめきが勝利を呼び込む正真正銘の「天才」であって、書物で学ぶという行為とはまったく無縁であるように思える。しかしながら、こういった個々人の固定観念がすっかり覆されるくらいきっちりと人物像が表現されていなければ、ドラマとしてとりあげる意味がない。その意味で、今後の方向性をずばりと示した今回は、ドラマ的にはとても意味のある回だったと思うのである。 タッキーも、台詞回しというかカツゼツにやや難があるものの、「わかりやすい理由に真正面から悩む青少年」を誠実に演じている姿勢には好感が持てる。何といっても、ジャニーズらしく身のこなしがしなやかで、今後の戦闘シーンにも期待が持てそうだ。 主要人物のキャラ設定が如実に表れていたという点では、松平健はさすが。重厚、老獪、忠実など弁慶を語るには幾つかのパターンが考えられるが、マツケン弁慶は喜怒哀楽が分かりやすく、実に人間臭い。比叡山と平家の諍いの中で陥れられ憤るさまや、平家の公達から刀を奪って無邪気に喜ぶさまなどは愛嬌たっぷり。平家を敵視する理由付けも明快だ。松平健も従来のハマり役というべき凛としたお殿さまとはがらりと様相を変え、おおいにイキイキと演じているようで気持ちがいい。このドラマの弁慶はこれでいくのだ!ということが一発で理解できた。 前回までとの連続性があまり感じられなかった点は少し残念だが、今回は単体でも充分手応えを感じることができたといえる。今後の展開に光明が射してきた気がする。やはり、日曜日の本放送時に寝てしまったのは、単に疲れていたに過ぎなかったのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 6, 2005 04:06:28 PM
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