テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:『義経』
五条大橋である。義経が弁慶と初めて出会う伝説の場面である。このドラマでは「月」が象徴的に使われているが、この夜も月の光が京の桜を静かに照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。ワイヤーアクションも思ったほど不自然ではなく、遮那王の殺陣に盛り込まれた洒落た仕草が伝説性に彩りを添える。弁慶を打ち負かした滝沢遮那王は、もの寂しげでありつつも凛々しい顔つきがキマっており、なかなかいいシーンに仕上がっていたと思う。
・・・が、こういう名シーンを、回の冒頭にもってくるのは断じてやめて欲しかった。ミステリーもののように「この次はどうなるの!?」と展開の意外性自体を楽しむドラマならば、視聴者の関心を引き付けるためにこの後の話の筋を隠して次回まで引っ張る手法も理解しないでもないが(個人的には好きではないが)、これは大河ドラマ「義経」なのである。五条大橋で義経が弁慶を打ち負かす、なんてことは、このドラマを見ようとしている者なら誰でも知っている。話の筋を隠す必要など毛頭ないのである。この場面でいえば、前回、母と清盛との関係を知った遮那王が心乱れた状態で弁慶と遭遇し、その流れのまま弁慶と対峙すべきであった。ならばこそ、母から貰った笛を鴨川に落としてしまったアクシデントも同情を誘い、遮那王の去り際の台詞も心に響くはずである。そして、弁慶が悔しさとともに驚愕の念を抱きつつうずくまるのを背に、遮那王がこともなげに凛と去っていくところで終われば、五条大橋の伝説は一話の物語として完結するのである。今回の五条大橋のシーン自体は完成度は高かったとは思うが、前回とふたつに分断してしまったことで、心乱れているはずの遮那王に感情移入する間を失ってしまっている。何ともったいないことか。 そんなことを考えていたら、今回の最後もまた「引っ張り」パターンだ(呆)。平家の武士に唆されたならず者たちが遮那王をおびき出したところで終わったが、どうせ彼らは遮那王に返り討ちに遭うのだろう。そんな見え見えの流れを次回まで引っ張ってどうするというのだ。そんな姑息な手段を使おうと頭を巡らす余裕があるのなら、遮那王が彼らに襲撃されるところまでをきちんと見せて、源氏残党に対して平家の警戒心がいよいよ強まってきたという今回の重要な流れをビシッと強調してもらいたかった。 場面場面はそれなりにいい出来のモノも多いのだが、変に間延びしていたり、逆に無駄な盛り上げ方を講じてみたり、どうも全体の構成のメリハリの付け方がまったく間違っていると思う。 ああ、もったいない・・・! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[『義経』] カテゴリの最新記事
|
|