テーマ:『義経』(332)
カテゴリ:『義経』
前々回あたりから、遮那王に対する平家の警戒が強くなってきている。その様子を見て、金売り吉次も奥州行きを勧めている。弁慶や静との運命的な出会いも既に済ませた。しかし、まだ遮那王は京に居る。
遮那王が幼い頃、清盛を父と慕い、清盛が福原に抱いた夢に深く共感しているということは承知している。こうした思いと自分の運命との間で揺れ動く遮那王の葛藤も、それが必須の描写であるということもわかる。そして、福原の海を目の当たりにしてようやく自分と清盛との間にある隔たりを悟るという流れも、それ自体はまあ納得できないでもない。 だがそうやって遮那王が迷っていられるということは、実はまだそれほど遮那王の身に危機が迫っているわけではないという印象を与えないとも限らない。特に今回は清盛が福原へ行ったり、徳子の入内が決まったり、乗合事件があったりして、平家としても遮那王どころではない様子である。そのため、遮那王が追い詰められているような切迫感(=奥州行きの理由付け)はむしろ弱まっているのであって、奥州行きの意志を固めたという今回の展開は唐突な感が強く整合性を欠く。結果、どうもすっきりと受け入れることができない。 そもそものちの義経が電撃的な軍事作戦を得意としたことを考えれば、本来なら、遮那王の奥州行きも電撃的に決断する方がふさわしいような気がしてならない。それとも、今回の義経はひたすら慎重で思慮深い設定だとでもいうのだろうか。(そんなことはないとは思うが)もしそうだとしたら、今までの滝沢君を見る限り、彼の一本調子の演技では、申し訳ないがそのような微妙な味わいは出せそうもない。 先週書いたこととも重複するが、まず先に清盛とは敵同士であるという自らの運命に充分葛藤させるべきかと思う。そしてその後に遮那王に対する警戒が急激に強まり、そこで遮那王が自らの処遇を一挙に決断し、疾風のごとく京から姿を消すという展開の方がしっくりくる。そうすれば、遮那王のナイーブな苦悩と、源平が再び対峙していく緊迫感がスピード感をもって両立し、物語上もメリハリがつくように思えるのだが・・・。 僕のこの生意気な物言いが単なるいちゃもんであってほしいと思う。のとのち、ああ、あのときのシーンはこういう展開の伏線だったのか、と後悔させて欲しい。しかしながら、現状では、制作者がこの物語をどうしたいのか、僕にはどうもまだよくわからないのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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