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鴨緑江の街丹東生まれのブログ

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2006年12月05日
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葫蘆島埠頭跡の私口琴を吹く私 残っていた興銀の寮              葫蘆島の引き揚げ記念碑    大連の最後の夜に   まだ残っていた元興銀の寮()                私も105万人の一人です    口琴を吹きました     我が一家は此処へ暫らく住んだ

満州引き揚げルートを辿る長春~葫蘆島の旅(06.6.8~14)                                       

私は昨年行った出生地丹東と共に懐かしき街長春へ行きたくてインターネットで見つけた長春会のツアーに参加し漸く引き揚げ後60年ぶりの再訪が出来た。成田から全日空機で大連へ飛び中国南方航空機に乗り継いで長春の新空港に着いた時はもう夜になっていた。

長春では中日友好会館に3泊した。2日目の午前中は先ず長春公園に眠る幾多の日本人達の冥福を祈った。この後昨年NHKで放映された長春中日友好楼の残留日本人孤児たちの養父母を訪ねこの旅に参加されているこの友好楼を私財を投入して建立した故笠貫先生の奥様と養母たちとの涙の再会に我々も貰い泣きした。

午後は旧満州国務院を参観、旧満映,南湖等を観光後各参加者の希望する思い出の地を順次回った。3日目は再び長春市内を巡回する組と吉林観光組に分かれたが私は市内巡回に参加した。私は当時住んでいた千鳥町、八島町、和泉町と父の勤務先の満州興業銀行本店ビル、よく遊んだ児玉公園西広場と通学した八島小学校と西広場小学校及び姉が通学した敷島高女と給水塔更に関東軍や当時一番の繁華街だった吉野町を回ってもらった。満州興銀ビルと関東軍司令部が長春貿易庁と吉林共産党本部として使用されており八島町の寮も残っていたが後は全て跡形もなく再開発されていた。しかし来る事が出来ただけで満足すべきであろうか。またインターネットのメル友に頼まれた撫松路にも行ってもらったが正確には場所が特定できなかったが附近を写真に収め記念として小石を3つ拾って来て帰国後郵送したら非常に感謝して貰ってよかった。

 改修中の元児玉公園 4851南湖公園(大同公園)のコピー.jpg                                    長春 改修中の元児玉公園(現勝利公園) 長春 元大同公園 (現南湖公園) ネットより                     

4日目は早朝列車で当時引き揚げたルートを辿って葫蘆島の手前の錦州迄行き其処からは葫蘆島へ専用バスで向かった。錦州南駅で連絡しておいた伊藤忠OBのメル友の三木先生が日本語の達者な姑娘を連れて待っていてくれた。私はガイドに頼んでこの2人をバスに乗せて貰い2日間共に行動することが出来た。

現在葫蘆島港は中国海軍の軍港で港へは入れなかったが港外ながら直ぐ傍に葫蘆島市人民政府が日本人の資金で建立したと言う日本人引き揚げ記念碑や引き揚げ船の乗船に使用された埠頭跡で写真が撮れた。60年間外洋の波浪にさらされていた埠頭は殆ど崩壊していて僅かにその痕跡を残していたに過ぎなかった。私自身が引き揚げ船に乗船したと思われる桟橋は港内にあったので其処へ立つ夢は実現できなかったものの此処へ来る事が出来ただけで満足すべきか。葫蘆島市人民政府の要人の説明では2年後に張学良葫蘆島築港記念碑の傍に友好公園が完成する計画だそうだ。

この後我々は引き揚げ船乗船まで待機していた馬杖房の収容所の跡を視察したが数棟残っているだけであった。更に錦州の収容所跡を車内から視察したが何れも中学や病院になっていた。尚北大営にも行ったが何れも車内からの撮影しか出来なかった。

尚我々は葫蘆島市の興城(老街)を観光中地元マスコミのインタビュウを受けたが此れが縁で地元の新聞に写真入で私の葫蘆島再訪記が掲載された

この夜ホテルに昨年我的出生地丹東に連れて行ってくれた丹東出身の岡山大学院留学生の妹、弟と彼の恋人の3人が待っていて熱烈歓迎をして呉れた。この夜は一行の夕食会を欠席して私は二組の友人たちと夕食を共にした。その後秦皇島へ帰る三木氏らを駅に送ってから私は彼らを誘って始めて中国のカラオケに行ったが日本語の曲がかなり沢山あったのには驚いた。

翌日雨中を早朝バスで大連に向かう途中高校同期の森本君が住んでいた大連郊外の普蘭店の写真を撮る事が出来た。午後雨中大連市街及び近郊の老虎灘、星海公園等を観光したが雨が強いので早めに切り上げた。この日の夕食最後の夕食会で私は持って行った口琴(ハーモニカ)を吹いた。私には記憶が無いが引き揚げ船が埠頭を離れた時誰ともなく口にしたと云う「故郷」や船員から教わったと云う「りんごの唄」等多くのリクエストがあって盛りあがった。宴終了後意気投合した加藤満雄先生と彼の中国人朋友の孫先生等とカラオケに行き最後の大連の夜を楽しんだ。かくして予期以上の成果を得た旅は無事終わった。

葫蘆島 マスコミのインタビュウを受けた                 葫蘆島築港記念碑(ネットより)    葫蘆島市興城でマスコミのインタビュウ

尚私は長春の中日友好楼を自費で建立された笠貫尚章先生の功績後世に遺すべきだと強く感じて同行されていた加藤満雄氏、実は作家の穂積淳先生に要請した所幸にも先生は快諾され笠貫未亡人にも大変喜ばれた。最後に当時から今日迄平時に於ける一般中国人民の心の広さに再度感じた事を付記する。                                              






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最終更新日  2008年05月22日 11時13分46秒
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