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カテゴリ:自分史抄録
自分史第2部「満州引き揚げ録」 上 今もある新京西広場給水塔(森繁久弥氏著書より) 先の大戦の敗戦後旧満州に残された多くの日本人が渤海湾に面する小さな港の葫蘆島から敗戦の翌年以降数年をかけて日本へ引き揚げました。約105万人だったそうです。引き揚げは戦後続いた中国内戦の合間に国共両陣営の協力と日本駐留米軍の協力があって実現された事と聞いています。敗戦翌年の夏が過ぎる頃から始まりました。 しかし文字通り身一つ、リュックと手に持てるだけの荷物で南新京駅(当時)より、途中奉天(現瀋陽)からは無蓋貨車で機関手や警備乗車の中国兵に賄賂を渡しながら10日程も要して葫蘆島近くの錦州にたどり着き迎えの引き揚げ船(米軍の上陸用舟艇の母艦?)を又10日ほど待ちました。そう云う事で祖国日本の佐世保迄は新京を出発してからほぼ1ヶ月近くかかりました。 それでも我が一家の様に一人も欠けずに帰国出来たのは全く幸運でした。北満の開拓団の人々は言うに及ばず新京辺りでもソ連参戦直後朝鮮に向かって避難した人達の中にも多くの犠牲者が出ていました。 特に酷かったのは北満の開拓団の人達で命からがら裸同様で何百Kmもしかも略奪を避ける為山間を徒歩で新京や奉天迄南下して来た人が多いのです。彼らは道中食べる物にも事欠き病気になって命を落としたり泣く泣く我子を満人(当時の呼称)に渡した母親も大勢いました。若い男は招集されていたりソ連軍に捕らえられたりして殆ど居ませんでした. 全てではありませんが多くの満人達は貧しい中でこの子達を大切に育てて呉れたようです。しかし文化大革命の時養父母達が実の親から預かっていた何らかの証拠の品を密かに処分した儘逝ったので彼等が後年親や親族を求めて一時帰国した際に決め手が無くて確認が出きなかったケースが多くなっています。 一方終戦直前に満ソ国境へ学徒出陣して行った学生達の中にも多くの犠牲者が出ています。原因は弱体化していた関東軍が逸早く満朝国境迄撤退していた事によります。それだけではありません. 我々在満の邦人は時の日本政府より新京大使館へ訓令があり「在満邦人は現地に同化せしめよ」、つまり見捨てられた訳です。これ等の事は先年「葫蘆島大返遣」と言うドキュメンタリー映画を観て知りました。 兎も角も漸くにして私が父の生まれ故郷の岡山県久米郡久米村に落ち着き地元の小学校へ約1年半のブランクを無視して4年の2学期の途中に復学しました。昭和21年11月の事です。田舎の学校とは言えこの間10数ヶ月全く勉強をしていなかったのですから当初算数など全然解らず追いつく迄は大変でした。子供心にもこの時の苦労は良く覚えています。尚私の父は長男で既に財産は相続していましたが戦後の農地改革で田畑の殆どを失っており在満財産も全て失くし引き揚げ時の一人千円のみだったので帰国当時は食べる事にも事欠く有様でした。 話が飛んでしまいましたが引き揚げ列車で葫蘆島に向かっていた時は無蓋車だったので予め用意していたテントで風雨を凌ぎ柵をもって転落防止をしましたが道中が長くて風雨を充分には凌げず途中病気になって亡くなった人も大勢いました。最大の悲劇は用を足す為に停車した際若い女性が恥ずかしさの余り列車を離れ過ぎて発車に間に合わず乗り損ね置き去りにされた事です。彼女は余程幸運であれば後続の引き揚げ列車に拾われたかも判りませんが多分良くて残留夫人と言われる事になったのではないでしょうか。 引き揚げ列車の車両は様々でしたが全て貨車でした。貨車でも箱者は多少は風雨は凌げましたが我々が乗った貨車は板一枚の貨車でしたから風雨に晒された上に転落の危険があり大変でした。然し本文にある如くこの事を予期し我々の町内では予め手製の柵とテントを用意して何とか凌げました。(ネットより)又 病死が伝染病と判断されるとその団体は引き揚げ船乗船を差し止められるとの噂が流れた為遺体を遺棄した団体もあったと聞きました。更には漸くにして錦州又は葫蘆島までたどり着いても引き揚げ船に乗船直前或いは乗船出来ても日本到着を前に遂に力尽いて亡くなった人も少なくなかったのです。何とも悲しい事です。 更に話を戻します。新京では我が家は幾多の幸運に恵まれ引き揚げこそ最後の方になりましたが朝鮮への避難を父の判断で回避した為最後まで自分の家に住めたお陰で引き揚げまでの生活を家財の売り食いで凌げました。実は新京の日本人達がソ連参戦により朝鮮へ避難する事になり私達も新京駅に集結し避難列車への乗車を待っていた時何故か父が関東軍から除隊されて新京駅に現れて朝鮮への避難に反対して我が一家は家に帰ったのでした。この時避難列車へは軍関係と満鉄関係者が優先され我々はなかなか乗れずにいたのが幸して父に会えたのです。幸運の第1と第2です。 しかしこの後実にいろんな事がありました。先ず敗戦の日の夜から毎夜貧しい満人の集団が日本人の家を襲う事から始まって間もなく進駐して来たのがシベリヤ編成の憲兵隊も居ない劣悪なソ連軍だったので強姦や強盗が頻発し日満両国人共になすすべもない有様でした。16歳だった私の姉も頭の髪を切って男装して不審者が侵入する気配があったら直ぐ天井裏に避難すべく天井裏に布団を敷いていました。姉が天井に登るのに使った椅子を外すのが私の役目でした。兎も角我が家はこの満人の集団強盗にも間一髪免れました。と云うのは前夜隣の町がやられ明日は我が町内必死と覚悟したのですが不思議な事に彼らは我が町内を跳び越えて隣の町を襲ったのでした。第3の幸運です。 又ソ連の兵隊が2人我が家に侵入しようと玄関の補強材を外すべく半夜ゆすったり叩いたりした事がありましたが夜が明け出して辺りが明るくなって諦めて行ってしまった事もありました。その間の恐ろしかった事! その後国府軍がソ連軍に代わって進駐して来ましたがこの頃になると戦後の後始末と言うか新京は長春の名に戻り街は完全に中国人の支配するところとなり父は敗戦まで勤務していた職場の金庫の金が敗戦のドサクサで無くなった事で経理の責任者と言う理由で「公金横領と満人虐待」の容疑で逮捕されました。しかし何と新しい長春警察署長が父の職場の守衛長だった事と父が日頃から満人への差別をしなかった事が幸して直ぐに釈放されました。此れが第4の幸運です。実際撫順で炭鉱の責任者だった義伯父(父の姉婿)は父と同じ容疑で八路軍の人民裁判によって路上銃殺されています。 又この年の冬の暖房用石炭の確保が食料と共に死活問題でした。お金で購入できる状況ではありませんでしたから町内の朝鮮へ避難しなかった人達が共同で日本人の空き家やソ連軍や中国軍の兵営或いは駅の貯蔵炭を無料で頂に行きました。此れは運が悪かったら警備兵に銃で撃たれる危険な仕事でしたが幸な事に此れによる被害者は出ませんでした。兎も角こうしてやっとその年の冬を何とかし凌ぐ事が出来ました。以下 下 へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年07月13日 21時57分05秒
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