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2006年12月07日
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カテゴリ:自分史抄録

自分史第2部「満州引き揚げ録」 下

引き揚げ船乗船 佐世保に上陸       引き揚げ船乗船(ネットより借用)  遂に佐世保に上陸した(映画『葫蘆島大遣返」より)        

一時我が家の前の道をシベリヤに連行される日本の兵隊さんの行列が連日通った事がありました。私たちが彼らの通り過ぎた後に行くと石ころを包んだ紙切れが落ちていました。彼らが家族宛に書いた連絡の為のメモです。父たちは其れを日本人会に届けましたが果たしてそれ々の家族に届いたか如何か。

翌年の夏以降日本人の引き揚げが始まりました。先ずは北から避難して来ていた人達を優先して送り出しました。その年の10月なってから我々も出発して先述の如くほぼ1ヶ月くらい掛かって佐世保に着き休む間もなく木の座席の列車に乗って一路故郷へ向かいました。乗客の殆どが復員の兵隊さんだった事を覚えています。途中広島が文字道理焼け野が原だった事も覚えています。原子爆弾の事は新型爆弾としてうすうす聞いて知っていました。しかし岡山から津山線に乗り換えた際に見た岡山の街も大同小異で一面焼け野が原でした。さて漸く帰り着いた父の生家は父の姉弟の家族に占領されていて我が一家は父が長男でありながら肩身の狭いおかしな状況に置かれたのでした。其れから父が岡山に出て職を手にする迄の約半年間の生活は惨めでした。食べる事だけなら戦後の満州のほうがましな位でした。

しかし思い起こせば私自身1つ運命の歯車が狂っていたら今の私は居なかったかもしれません。 命を無くしているか又は残留孤児になっているかのどちらかでしょう。こう思うと全てが忸怩たる想いに駆られます。 尚私がこの「満州引き揚げ録」を書く事を思いついたのはすぐる年満州生まれの中学生で終戦を学徒動員で満ソ国境で迎えた国広威雄氏が私財をもって製作したドキュメンタリー映画「葫蘆島大返遣」を観て自分の大まかな記憶と映画で知った事実とが確認出来た事によります。最後に「私だけの体験」付記を書いて終わりといたします(2003.6.)

『付記』1.「私だけの体験」

終戦直前のある日私が一人庭で遊んでいた時の事です。突然一機の戦闘機が急降下して私目掛けて機銃掃射して来たのでした。気が付いた私は丁度傍にあったコンクリートの井戸枠の影に隠れ難を逃れました。もし気が付かなかったら今日の私は居なかったかも判らなかったでしょう。パイロットの顔が見える程低空でした。米軍機でしたが恐らく偵察の帰りの悪戯だったのでしょう。傍に大人の小指大ほどの機銃弾がコンクリートに当たって先が歪で落ちていました。何故かこの事ははっきりと覚えていますが不思議な事に怖かったか如何かは余り覚えていません。

『付記』2.葫蘆島とは

葫蘆島(映画のチラシより借用)

葫蘆島は島ではなく瓢箪型の半島です。以前は小さな漁村でしたが張学良が築港し戦後日本人の引き揚げに使用されました。その後経済特区として発展し今日は軍港になっていて外国は無論一般中国人も港へ入れないそうです。

『付記』3.大遣返とは そして丹東と長春への想い

大遣返とは「大規模な引き揚げ」と言う中国語だそうです。私は早いうちに生まれ故郷の安東(現丹東)と引き揚げまで住んで居た新京(現長春)やこの葫蘆島にもう1度行ってみたいと思っています。最近家内が友人の紹介で親しくなった中国のハルビンからの留学生の両親から来たら案内してあげましょうと言ってくれているので何とかして行ける機会を狙っています。彼らは清朝の愛新覚羅家の八旗(親衛隊)の白家の末裔だそうで現在は哈爾濱で共に医者を生業としています。

後記(この度の追記) 

私は1936年5月安東(現丹東)に生まれ4歳頃新京(現長春)に移り開戦1年前に一度帰国しました しかし昭和19年の夏日本の食糧事情が悪化した事により再度渡満した結果父と共に敗戦を迎える事になりました。記載内容は当時10歳の私の記憶と家族から聞いたことをベースに書きました。尚平成18年6月長春会より当引き揚げルートを辿る旅行があり私も参加し60年振りに記憶を辿りつつ当時は全く知らなかったこと、即ち在満の我々百万人を超える日本人を未だ内戦が収まらない中を葫蘆島から引き揚げさせた中国の成した人道上の心広き行為を知り今さらながらその歴史的偉業を評価すべきである。 完

満州と日本葫蘆島                                         地図は自作                                   葫蘆島(ネットより借用)       

                    






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最終更新日  2007年07月13日 21時02分20秒
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