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カテゴリ:自分史抄録
自分史 抄録 『始めに』(99.5.1. 第一回編集 今回抄録化) 平成9年秋今までの人生で最も長い期間を過ごした不二製油を定年退職して郷里の岡山へ帰り半年間吾身のオーバーホールと母の看病をした後1年間だけだったが第2就職で大阪へ新幹線通勤をしました。その後は日々母の見舞と余暇を朝日高校の同期連とのスポーツを中心とした交友で過ごしてきた。一方妻も旧友との交友や庭弄りを楽しんでいたが平成10年の夏突然妻の次兄が肺癌で亡くなったのに続き年末に私のたった一人の姉も母よりも3年早く脳出血で急逝しました。 私はこれを機会に以前から考えていた「自分史」に取り掛かる事にしました。実はこの直後私の人生に於ける大きな出来事であった満州引き揚げに関するドキュメンタリー映画「葫蘆島大返遺」を見た事が大きなきっかけになったのです。 第1部 出生から満州引き揚げ迄 戦前の安東駅 戦前の新京駅(2枚ともネットより借用) 「出生から敗戦まで」 私は11年5月12日旧満州帝国安東市掘割南通りで出生しました。当家は摂津池田の出で村重の乱で一族離散し我が一族は一時森家に仕官後故あって帰農。岡山県北に土着し天領の庄屋を務めていたが明治以降祖父が事業に失敗した後政治に手を出し県会議員迄なったが結局家財の大部分をなくした模様です。母寿は矢張り岡山県北で村長を務めていた旧家の四女でした。 今は無き父生家の門(本籍) 母の生家(今もある9 一家は銀行員の父の転勤に伴い朝鮮の京城、満州のハルビン、安東、新京と移り住みその間姉が京城で生まれ七年後私が安東で生まれた訳です。開戦近しというので一度帰国したが1944年夏まだ食べる物に不自由の無かった満州に既に米国の潜水艦が出没して危険だった対馬海峡を渡って渡満、その儘新京で敗戦を迎えました。この間私は岡山県北の勝山国民学校に入学し新京の八島小学校に転校し次いで西広場小学校に転校後間も無く敗戦となりました。 八島小学校 西広場小学校(共にネットより借用) 「敗戦から引き揚げまで」 当然のことながら終戦の日から全てが変わりました。先ず中国人と日本人の立場が逆転し何時の日からかは定かではありませんが一部の貧しい満人(当時の呼称)達が集団で日本人の家宅を襲い命以外の全てをさらって行く恐ろしい夜が続きました。私も子供心にあの「わっー」と云う雄叫びをはっきりと覚えています。何とも云えない恐ろしい叫びでした。何しろ大集団なので後ろの方は目ぼしいものが残っておらず着ている衣類まで脱がされたそうです。明日は我が家と言う所で何故か奇跡的に彼等の襲撃を免れました。 我が家では15歳の姉は頭の髪を切って男装し外出など一切せず何かを感じたら直ぐに天井裏に逃げれるように布団を引いて待機しており私が使った踏み台の椅子を外す役でした。敗戦後新京は長春に戻りソ連軍が進駐し撤収後国府軍,中共軍が長春の争奪戦を繰り返し我々日本人達は必死に生きるための努力をしました。 引き揚げが始まったのは翌年の夏以降でした。しかしそれ迄は全く予測もつかず只その年の極寒を如何に過すか、食料と石炭の確保が死活問題でした。幸にも我が家は最後まで自分の家に住めたので食料は家財物々交換で、石炭は近所の日本人達と駅やソ連軍の兵営から夜間そっと無料で頂に行きました。運が悪いと狙撃される極めて危険でしたが何とか凌ぐ事が出来たのでした。 だんだん寒くなってきた頃ソ連参戦時北朝鮮へ避難した人達が帰ってくるし北満からは着る物も無く僅かに穀物を入れるドンゴロスに首と両手の穴を開けて身につけただけの集団が続々と新京に逃げ込んできました。何百Kmも歩いての逃避行です。新京の邦人たちは極力部屋を提供したり食事の炊き出しをして迎えましたが何しろ大勢であり自分たちも余裕があるわけでもないので彼等の多くは窓ガラスも無くまして暖房も無い学校や倉庫であの極寒の冬を過したため多くの人が命を落としました。新京に辿り着く前にお年寄りや幼児の多くが亡くなっていました。我が家は2所帯に部屋を貸していました。 この後すぐ新京は八路軍(中共軍)との争奪戦の場となって何回か入れ替わりました。丁度我が家が面していた大通が両軍の最前線となっていたので我が町内は激戦時は何故か通報があって後方まで避難しました。 そうこうしている間に1年が経過し国府軍が新京を確保している間に日本人の引き揚げが始まったのでした。新京の日本人会では先ず北からの避難者を先に出発させて比較的余裕のあった我々は最後の方でした。昭和21年の秋で新京はもう薄寒くなっていました。 荷物は持てるだけでしたから私は子供ながら背中に大きなリュックを背負わされた記憶があります。お金は既に日本が新円になっていたとかで一人1千円のみでした。尚引き揚げ列車に乗った駅が南新京駅だったとは知りませんでした。 乗った列車は板だけの無蓋貨車でしたが予め聞いていたので落ちないように柵と雨を凌ぐテンを用意していました。この間の事情は第2部(「私の満州引き揚げ録」)に記載してあります。 尚当時の写真は中国側の命令で1枚持って帰ることが出来なかったので現存しているのは父の実家にあった僅か数枚だけです。 無蓋貨車に乗り込む引揚者 葫蘆島の岸壁を離れた引揚げ船(ネットより借用)お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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