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カテゴリ:自分史抄録
第3部その1「帰国後大学入学まで」 昭和21年(1946年)11月満州から引き揚げて岡山県北の誠道小学校4年に留年しないで編入しましたが1年半余のブランクは大きくて最初の算数の試験は0点でした。掛け算の九九がやっと済んだ所で終戦となり以来学校に行っていないのにいきなり分数だったので無理もありませんでした。しかしこの時の担任の若くて綺麗な女性の佐々木先生が熱心に手伝ってくれたお蔭で僅かな期間で追い付けた事はこの翌年の夏生活の基盤を岡山に移したことからも非常に大きかった。 尚この間10ヶ月ほどの田舎暮らしで生来ひ弱かった私は一段と丈夫になったようです。往復約4Km程の通学と田舎の生活がその要因でしょうか。登下校の途中畑で悪童との草相撲をとり腹が空けば畑に実っているトマトやきゅうりを喰い冬の雪道を藁草履で通ったものでした。 誠道小学校の佐々木先生と 出石小学校の近藤先生と この時の生活は非常に厳しく父は先述の如く父が従兄を頼って姉と一緒に岡山に出て行き多少とも見通しが立った翌年の夏私達母子は岡山の父と合流しました。岡山では父の従兄が岡山駅前で経営していた石油商の宿直部屋の6畳一間に親子4人住まわせてもらい私は出石小学校に転校しました。担任は近藤先生と言う男の先生で熱心ではあったが非常に怖い先生でした。 一方生活はまだまだ苦しく母は近所の親切な方から当時貴重だった布類を世話して貰って実家のある田舎に行商に行っていました。この様な中でも母は私に修学旅行に行かせてくれました。何故か私は乏しい小遣いからコッペパンを買って食べ母に小さな弘法大師の像を土産に買った事を覚えています。 桑田中学校の大田先生と 姉と(西川の新築の家) 出石小学校卒業後鹿田小学校と合流する桑田中学に進みました。1年が北山先生(現松本姓)2年が女性の八尾生生で3年はその昔兵役時代ジャワで若きスカルノと交友があったと言う太田先生でしたが既に先年亡くなられました。太田先生から卒業祝いに「洒落院被好娘娘居士」なる戒名を貰ったのですが残念ながら私自身それまでもそれ以降もそれ程女の子にもてたと言う実感はありません。桑田中学では新たに鹿田から来た赤木、香川、古川、黒埼等と親しくなりました。尚1年の時姉は望まれて河田病院の河田大作院長の次男で外科医になったばかりの義夫に嫁ぎました。 桑田中の優等だった親友が高校入試に失敗したので仲間数人と彼を慰める為に児島半島の貝殻山にテントを背負って2泊3にのキャンプに行来ました。仲間は全てボーイスカウトだったのでキャンプの経験があっようですが私は初めてだったので強烈な思い出になっています。尚彼は翌年希望校の朝日へ無事入学しました。 私は桑田を卒業後進学校の朝日高校に入学しましたが朝日高校は岡山一中の後身で名にしおう進学校だったのでクラス編成は成績順で副読本も違う有様で修学旅行すらありませんでした。私は優秀クラスの授業が難しくて理解出来ずしばしば授業中に抜け出して裏山で遊んだものでした。と云う事で同期会である30会の岡山の連中と在学中知っていた者は少なかったのですが同級生である事で直ぐに旧知の如く打ち解ける事ができたのは幸でした。 朝日高校2年(運動会準優勝) 2列目左から二人めのコートが私です 思い起こすと我が家もこの頃ともなると多少ゆとりだ出来てきたようで父母は時折揃ってその頃駅前の劇場にかかっていた美空ひばりや島倉千代子の公演を聴きに行っていました。我が家がこの様に戦後の困窮生活から何とか立ち直ったのは先述のように石油商を営んでいた父の従兄の桝本猛夫さんのお蔭だった事と母の二人に姉と実家を継いだ弟も何かと母を助けてくれたことを明記しておきます。 我が家の恩人夫妻 母と二人の姉 さて私は大学進学の時期となったが日頃の勉強嫌いが祟って周囲が期待していた医学部への進学を失敗し望まぬ事ながら浪人するはめになり両親が入学手続を取った京都の予備校で浪人生活に入りました。そこで私は夏休みまでは予備校でまずまずの成績でしたが夏休みの間に遊び癖が再発し遂に翌年同志社大学の経済学部にやっと入学する始末でした。 一方父母は楽になったとは言えそれ程の余裕があった訳ではないので私への仕送りにはかなりの苦労があったはずでしたが私はそれ程とは思わずしばしば規定の仕送り以外に無心を言っては母を困らせていたようです。しかも大学ではパチンコと入部したハーモニカン・ソサイアティ(DUHS)の仲間達と2番目の下宿で覚えた麻雀に明け暮れ奇跡的とも言える4年間での卒業をした後父のコネで当時町工場に毛の生えた様な小さな不二製油にやっともぐり込む始末でした。尚DUHDSでの詳細は次項で記します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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