スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想
この写真は、「蓮華王院」境内南側の築地塀と南大門の屋根の眺めです。この南大門は、かつてあった方広寺大仏殿の真南にあたる位置にあります。平安時代末期、保元の乱(1156年7月)が起こり、後白河天皇側が崇徳上皇側を破り勝者となります。1158年に第一皇子守仁親王(二条天皇)に譲位していた後白河は上皇としてこの地の「法住寺殿」に移住し、ここを根拠地に院政を始めます。保元の乱の三年後に平治の乱が起こり、平清盛が源義朝を滅ぼすと、後白河上皇の皇位が安泰の時期を迎えるのです。それは同時に、平氏全盛の時代になっていきます。後白河上皇が法住寺殿に移住した時には、「蓮華王院」と称される観音堂があったようです。その後後白河上皇は、鳥羽上皇が清盛の父、平忠盛に命じて造営させた得長寿院をモデルとして、平清盛の力を借りて蓮華王院三十三間堂を長寬2年(1164)に完成させます。「三十三間」というのは、お堂の柱と柱の間が三十三あるということに由来します。詳しくは後ほど・・・・。ところが、この時のお堂は、寿永2年(1183)木曽義仲による焼き討ちで破壊され、建長元年(1249)に姉小路室町での出火が洛中に拡大する大火となり、蓮華王院の塔にも飛び火し、蓮華王院の伽藍は炎上し灰燼に帰したのです。その後、後白河法皇の政治を敬慕する後嵯峨上皇が、氏長者(うじのちょうじゃ)である九条道家の力を得て、文永3年(1266)4月に、三十三間堂を復興させました。この時に、湛慶を筆頭とする仏師集団が活躍したのです。(資料1,2)この復興後のお堂が現在の「蓮華王院三十三間堂」です。そして、後の時代に、蓮華王院(法住寺殿)の寺地を豊臣秀吉が利用して、三十三間堂も取り込んで方広寺・大仏殿を築くということになります。その南大門が冒頭の写真です。南大門から現在の蓮華王院の境内西端まで92mの築地塀(練土塀)が残っていて、「太閤塀(たいこうべい)」と通称されているのです。(資料1)さて、2017年1月15日に、この三十三間堂を訪れました。この日に「通し矢」が境内で行われるからです。雪が吹雪くときがしばしあり一方で青空も時折見られるという寒い一日でした。公式には「大的大会(おおまとたいかい)」と称され、江戸時代の「通し矢」にちなむ大会が恒例行事として行われ、全国から大勢の参加者が集まります。それを見物しようと集まる人も大勢です。私もその見物人の一人。当日三十三間堂に行ったのは、久しぶりに「通し矢」を少し眺めたいということもありましたが、この日は本堂が無料公開される日でもあったからです。南大門に近い所に普段は閉じられている門扉が開いていましたので、そこから蓮華王院の境内に入りました。 三十三間堂を南東側から眺めたところ。三十三間堂(以下、本堂と略称)は南北方向に縦長に建っていますので、建物の南東隅と東側面になります。五色の垂れ幕が設えてあります。 棟や稚児棟の鬼瓦の鬼は、前回ご紹介したタイプと異なり、スタンダードなタイプです少し違うのは、角の間の額には梵字が陽刻されていることです。本堂の南西側、境内の南端に近いところに、「久勢稲荷社」が祀られています。 神社の斜め前に立つ駒札「『通し矢』射場」この駒札に貼付の絵図をみますと、かつての「通し矢」は本堂の外縁の南端から北端に向かって矢を射る形だったことがわかります。”江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は民衆の評判となりました。縁側の柱や軒に残る鉄板は、雨あられと飛びくる矢からお堂を守るために徳川第三代将軍家光が付加したものです。 西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、矢を射つづけるという「大矢数(おおやかず)」は身命を賭けた壮絶な競技で、江戸時代を通じて、約800人がこれに挑み、時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ100万本に達すると伝えられます。毎年正月(15日に近い日曜日・無料公開)には、この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2000人が参加し終日、賑わいをみます。”(駒札転記)この駒札から少し北側からは立ち入り禁止でした。というのは、現在は本堂の北側から、南側に設置された大的に向かって、矢を射放つ方式に代わっているのです。的の背後に幕が張られています。立ち入り禁止のロープの近くで、本堂と張られた幕の間に少し広い空隙がありました。そこから、デジカメのズームアップで撮れたのがこの写真。この直後に、係員の人がさらに幕方向に近づこうとした人が居て、矢が飛んでくる可能性もあり危険なので、立ち退いてくださいと注意されていました。それを潮時に、本堂方向に向かいました。 本堂と回廊の間にある東庭の池池の向こう側に居る集団は、大会に出る人とその関係者が大半に思えました。連子窓付回廊塀のある朱塗りの回廊。北側から南西方向の景色本堂の東側境内に集まる大会参加者、関係者の一群雪が吹雪く中で多くの人々が集まっていました。回廊から境内を横切り、まずは本堂を拝見に入口に廻ります。本堂内は撮影禁止です。これは本堂内を拝見した後、本堂出口の近くで購入した冊子です。A4サイズの写真集。本堂の諸仏の写真と解説文で構成され、日本語・英語の併記版です。A5サイズで、国宝三十三間堂の歴史と本尊、建築美とその意匠などについての案内書です。この記事をまとめる上でも参照しています。南北に長い本堂内部は、東側に通路部分(内陣廊下)があり、諸仏は東面する形で並んでいます。上掲案内書によると、本堂の縁の端から端まで南北に125m強、東西に22m弱という大きさです。ズラリと並ぶ円柱は片側に36本立ち、桁行三十五間(118.2m)です。建物の東西の幅が梁間五間(16.4m)です。本堂の内陣が正面三十三間、側面三間となり、その周辺を一間分の外陣(げじん)がめぐっています。(資料1)東側が内陣廊下として、内陣三十三間の中央部に鎮座する中尊・千手観音菩薩坐像を中心にその左右に1000体の千手観音菩薩立像が整然と安置されているのです。上掲引用の表紙で中尊と1000体の千手観音菩薩立像の一部をおわかり願えると思います。諸仏の写真は、「蓮華王院三十三間堂」の「仏像」のページをこちらからご覧ください。内陣廊下から正面を見ると、諸仏たちと廊下の間に仕切りの柵が設けられており、その柵に諸仏の名称と解説文の説明板が要所要所に掲示されています。内陣廊下は北の端から南に向かうのですが、柵の内側で廊下に一番近い所に、一列に、国宝雷神像、二十八部衆、国宝風神像という形に像が並び、その奥側に千手観音菩薩立像が10列の雛壇上に整然と並んでいます。立像の顔部分が全て見られる高さだけ、雛壇が高くなっています。何度か拝観していますが、その都度やはり圧倒される景色です。本堂の天井は二重虹梁蟇股式の構架で、化粧屋根裏という構造です。本堂を巡る外陣は、諸仏を安置した背後が壁面で仕切られていて、その西側も一直線に南から北に抜ける通路部分になっています。その内陣壁面に沿って、通し矢の歴史的な説明や三十三間堂の建築についての説明パネルが掲示され、ここにも諸仏が祀られています。ここもパネル説明や写真などを丁寧に読んでいると、3,40分くらいはあっという間に経ちそうです。三十三間堂について一歩踏み込んで学べる学習コリドーです。通し矢の記録史が西側の廊下に掲示されていますが、おもしろいものです。通説では、今熊野観音寺の別当梅坊(一説は梛坊なぎのぼう)が射芸をたしなむ人だったそうで、あるときこの三十三間堂に立ち寄り休憩中にこころみに矢を放ったのが起こりと伝わるとか。慶長11年(1606)正月18日、浅岡平兵衛が51本の通し矢を行ったという記録が残っているそうです。このとき額を奉納しているようです。「大矢数」は、日の長い初夏の頃、暮六つ(午後6時頃)より24時間ぶっつづけで行う方式だとか。最高記録は、1686年、紀州藩家臣和佐大八郎によるものと言います。総矢数13,053本、通し矢8,133本を射たそうです。この時、大八郎は18~19歳で前髪立の若衆姿の若者だったそうです。そして、通し矢の最後は、明治28年(1895)若林素行による4,457本であり、以後は中絶したのです。(資料1,3)では、いよいよ、いわゆる現代風「通し矢」である「大的大会」を少し垣間見ることにしましょう。2003年1月と2011年1月にも、この「通し矢」を一部見学して写真に撮っています。その時の記録写真も回想風に交えてのご紹介です。本堂を出る手前に記念品などの売店が設けられていました。その南側から、かつては本堂の西側の外廊に立ち、通し矢を見られるギャラリースペースが設けられていたのですが、今年(2017)はそれがなくなり、射手側の写真撮影も禁止になっていました。通し矢行事の見学者が増えたせいでしょうか? これらは、2011年1月の「大的大会」の時、撮ることができた頃の写真です、 (2011.1)本堂の北側から参加者が一列に並び、同時に南端に置かれた大的に矢を射放ちます。本堂の西側に一般観覧スペースが設けられ、数張りのテントも設置されています。この観覧者用スペースは、今年も同様でした。雪が降ると、テントがあるのはありがたいものです。しかし、限られたスペースですので、テント内の見物者が退席しないと、なかなかテント内に入るのも難しい・・・・のが実情。この2011年1月の折は、京阪電車の七条駅下車で三十三間堂に向かったのですが、その時も一時的に雪もよいでした。前を袴姿の参加予定者が大会場に向かっているところでした。本堂を出て、大会参加者のテントの傍を通り、一般観覧席側に廻って行きました。テントの最後尾に余地があり、なんとか何枚か射手側の写真を撮りました。今年の写真 雪が吹雪く瞬間に、順番が巡ってきた参加者たちのシーンです。雪の降る中、片肌脱ぎで矢を射放つ参加者もいらっしゃいます。参加者が多いために、大会は途切れることなく続いて行きます。その少し後に、一時的に雪が止みました。参加した射手の立ち並ぶテントと三十三間堂はこんな感じの景色になります。2017年、外縁にギャラリーは居ません。降る雪が止んだところです。雪が舞う最中と、止んだあと、的の狙いと的中率は・・・・? こちらは2003年1月に見物した時の写真。一般観覧者席側から撮ったものです。 大的の設置された南端側には、本堂外廊に「的場審判」の係の人が着座していて、大的が3つ並んでいます。(2003.1)これは、今年の的場審判の景色。大的の近くです。外縁側を注視していませんので、上掲のような係の人が居たのかどうかはわかりませんが、少なくとも2017年、西側に的場審判のスペースが設置されていて、係の人々が忙しそうにされていました。雪が降ったり、止んだり、吹雪いたり・・・裏方さんも大変な一日です。この後、少し本堂東側の境内を散策探訪しました。本堂中央部の東側正面に、現在の「正門」(東大門)があります。東大門の内側や回廊に、大会参加者たちがグループ毎に集まったりしています。この基壇上にたつ「東大門」は、単層切り妻造り二重虹梁蟇股式で本瓦葺きです。桁行18m、棟高11.6mだそうです。五間三戸門の左右は基壇の延長線上に回廊、回廊塀が延びています。回廊塀は128mあり、回廊塀も朱塗り、白壁で、緑色の連子窓つきです。門も塀もともに典型的な鎌倉様式の建築だとか。「現在の境内は、延長524mに及ぶ築地塀に囲まれて、内に25,073平方メートル(7,598坪)ある」(資料1)とのことです。興味深いエッセイ文の一節を引用し、ご紹介します。後白河法皇は『梁塵秘抄』という当時の民衆の歌謡の代表である「今様」の歌詞集を編集しています。撰集全巻が残っているわけではないのですが、巻二に次の法文歌が載っています。 万の仏の願よりも、千手の誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木も忽ちに、 花咲き実生ると説いたまふ後白河法皇自らが書いたとされる『梁塵秘抄口伝集』に、後白河法皇が熊野三山に参詣し、新宮で千手経千巻を徹夜で転読して、暁方(あけがた)にこの歌を謡ったところ、熊野権現もそのことを喜ばれたと・・・云々。このことについて、梅原猛氏は「即ち千手観音は、生命復活即ち再生の仏なのである。すると、後白河法皇の信仰なるものも生命の復活・再生の信仰ということになる。」(資料2)と。後白河法皇は院政をしながら、隠謀を巡らし平清盛、木曽義仲、源義経などを次々に滅亡に導く策謀に長けた政治力を発揮した人物です。後白河法皇の政治の側面と信仰の側面を絡めて、次のようなおもしろい見方も記しています。「この後白河法皇の政治力を支える呪的本尊が、三十三間堂即ち蓮華王院の千一体の千手観音なのである。中尊を挟んで左右に、一列に五十体、等身の千手観音が、十列-千体並んでいる姿を見ると、私はそこに仏の軍隊とでも言うべきものを感じる。それは、武士の力で政権の座に就いた後白河法皇が持った、幻の軍隊であった。彼は、清盛にこの軍隊を造らしめた。この幻の軍隊が、後には清盛の持つ実際の軍隊を都から追放した。さらには、義経や義仲の軍隊を迎え入れ、またこれを追い出した。この仏の軍隊は一切の武士の軍隊を追放してしまったのである。このことによって、後白河とその後継者たちは、思う存分遊興と信仰に明け暮れることが出来たのである。」(資料2)仏をも道具に使うという視点は、おもしろい発想だな・・・と思います。そういえば、仏教が伝来された後、仏教を「鎮護国家」のために使ったのも、ある意味で政治が仏教信仰を道具化した始まりと考えられますね。最後に、江戸時代に出版された『都名所図会』に「蓮華王院三十三間堂」の絵が掲載されています。引用させていただきます。(資料4)この絵で江戸時代の三十三間堂の景色がわかります。それと併せて、通し矢の場面が描き込まれているのです。本堂を切り出してみました。 外縁の南端部を更に拡大。弓に矢を構えた人物が描き込まれ、それを竹垣越しに見物する人々が描き込まれています。通し矢が名物になっていたことがうかがえます。つづく参照資料1) 『国宝 三十三間堂』 発行・三十三間堂本坊 妙法院門跡 2) 『京都発見 二 路地遊行』 梅原 猛 著 新潮社 p282-2953) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p103-1054) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第3冊 13コマ目 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)補遺通し矢 :ウィキペディア このページに、写真として載せた駒札に貼付の浮世絵・歌川豊春筆「通し矢」 が掲載されています。三十三間堂通し矢図(無題) :「文化遺産オンライン」三十三間堂通し矢図(無題) :「文化遺産オンライン」 これが蓮華王院だとすると、矢を射る方向が奇妙です。上記の絵の反転?三十三間堂の通し矢 :「京都観光Navi」江戸 深川の三十三間堂 『江戸名所図会』:「東京都立図書館」歌川広重「名所江戸百景 深川三十三間堂」 :「太田記念美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- へスポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵 へスポット探訪 京都・東山 養源院 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -1 トラりんと雪景色&庭散策 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -2 明治古都館の外観細見 へスポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 妙法院 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 即成院と戒光寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -1 本堂(龍華殿)・霊明殿の石灯籠 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺山内 雲龍院 -2 境内庭園・蓮華の間・悟りの窓・走り大黒天 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 泉涌寺周辺の散策 御陵群・善能寺・来迎院 へスポット探訪 [探訪] 京都・東山 今熊野観音寺 へスポット探訪 [再録] 京都・東山 今熊野観音寺 -今熊野西国霊場 へ