スポット探訪 [再録] 京都・東山 新熊野神社
[探訪時期:2015年11月]京都秋の特別公開寺の探訪と併せて「新熊野神社」を久しぶりに訪れてみました。前回ご紹介した妙法院が面する東大路通を南進します。智積院の門前を通り過ぎ、JR琵琶湖線を跨ぐ道路を越えると、「今熊野」と呼ばれる地域です。東側の歩道からは南西方向に「新熊野神社」が見えて来ます。この新熊野神社をご紹介します。冒頭の写真は、石造鳥居に掛けられた額です。「新熊野」を「いまくまの」と読ませています。現在のこのあたりの地名は「今熊野」です。江戸期に出版された『都名所図会』は「新熊野社」の見出しで、「後白河法皇の御願にして、紀州熊野三所権現を勧請せり。」と説明しています。(資料1)後白河法皇は熊野権現を非常に深く信仰した人のようで、その人生において34回熊野に参詣したそうです。何とも驚異的な御幸回数です。お供の人々も大変だったことでしょう。三十三間堂の東側のところに仙洞法住寺殿を築いて院政を行った後白河法皇が、その北にあたるこの地に、法住寺殿の鎮守社として熊野の神霊を勧請したのです。永暦元年(1160)10月、平清盛・重盛父子に命じて社殿を造営させたといいます。熊野の新宮・別宮としての創建であり、紀州の古い昔からの熊野に対して、京の新しい熊野、今の京における熊野信仰の拠点という位置づけで、「新熊野」と書いて「いまくまの」と称されたようです。それ以来、皇室の尊崇あつく、都人の信仰の対象となり、社域も広く社殿も荘厳をきわめ繁栄していたそうですが、応仁の乱に遭遇し、衰微したといいます。そして、江戸初期に再建されます。(資料2,3)鳥居をくぐると、左側に「樟龍弁財天」の提灯が掛けられた門が見えます。門前の右側に置かれているのは、「大樟(くすのき)さんの『さすり木』」です。門から中を覗くと、大木の幹の前に今熊野大権現の石標が立っています。この大木が「影向の大樟」(ようごうのおおくすのき)で神木です。。ここは「樟社」と呼ばれています。影向とは「(仏教語)仏や菩薩が衆生教化のため、仮の姿でこの世に現れること。えいごう。」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。祭神が樟大権現とされています。樟大権現は新熊野神社の固有の神だとか。その本地仏が樟龍弁財天で、樟龍弁財天は弁財天(仏)の化身です。 その大木の全姿がこの写真です。手許の本(1980年6月出版)には「高さ20m、樹囲6.5mにおよぶ巨木」と記されていますので、現在はさらに大きくなっていることでしょう。樹齢は900年と推定されているそうで、当社創建の折、紀州熊野から移植されたと伝えられています。樟社の左斜め前に石標が立っていますが、京都市指定の天然記念物です。(資料1,5) 社殿の前に配された狛犬 狛犬の傍にある駒札社殿の左右に繁る神木「梛(ナギ)」についてのいわれが記されています。この神社の所在地名は「今熊野椥ノ森町」です。椥は「なぎ」と読みます。 本殿祭神は熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)で、日本神話では伊弉冉尊(いざなみのみこと)と称する神だといいます。熊野那智大社の祭神です。「現在の社殿は寛文6年(1666)、聖護院宮道寬法親王が東福門院より賜った禁裏御所の建物とつたえ」(資料1)るものです。本殿は寛文13年(1673)に聖護院道寬法親王が修復されているそうです。東福門院とは後水尾天皇の中宮で、徳川家から入内し、3代将軍徳川家光の妹です。聖護院道寬親王は後水尾天皇の第13皇子で、聖護院の第35代門跡となった親王です。本殿は三間社、流造、檜皮葺です。(資料1,2,6)社殿を西側から眺めた景色。こちらからは本殿が見えません。本殿の南西方向に、土蔵造りの建物があります。収蔵庫のような感じですが未確認。本殿の西側に、「京の熊野古道」の入口があり、ここに、「上之社」と「中之社」の社があります。写真に写っているのが「中之社」です。上之社の祭神は、速玉之男大神(イザナギ命)と熊野家津御子大神(スサノヲ命)です。速玉之男(はやたまのお)大神は、熊野速玉大社の祭神です。熊野家津御子(けつみこ)大神は、熊野本宮大社の祭神です。神名の本来の意味は「木の御子の神」だそうです。中之社の祭神は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)です。 入口を入ると、上之社から本殿そして本殿の東側に配された下之社までの、北側の少し小高い場所を熊野古道に見立てられているようです。覆い屋を設けたガラスケースの中に、熊野信仰に関係する様々な形象物が配置されています。熊野信仰の一端を知るうえでも、ゆっくりと拝見する価値があると思います。このご紹介を書くにあたり、参照させていただいていますが、「新熊野神社」のホームページにある「京の熊野古道」の説明ページが有益です。(資料7)「神は姿形がありません。従って、神を描こうとすれば仏で代替するしかないのです。仏を拝むことは神を拝むことであり、神を拝むことは仏を拝むことでもある。日本人にこの信仰があるから、仏で以って神の世界を描くことができるのです。しかし、姿形のある神もいます。それは「神のお使い」と呼ばれる神々で、熊野では八咫烏が有名ですが、五体王子(藤代王子・切目王子・稲葉根王子・滝尻王子・発心門王子)を始めとする熊野九十九王子がこれに当たり、この神々は仏と対で描くことができます。」(資料7)と、冒頭に説明されています。本地垂迹説と呼ばれる神仏習合の考え方でしょう。神と本地仏の関係が良くわかり参考になります。 熊野稲葉根王子と荼枳尼天 稲葉根王子は引用文にある「神のお使い」と呼ばれる神の姿です。稲の束を担う姿で描かれています。それで、稲荷神とも稲荷神の姿をした金剛童子とも言われています。金剛童子は「仏教の護法神の一つ。密教で息災・調伏などの修法の本尊となる童子で、忿怒の相、手に金剛杵を持つ姿で表される」(『日本語大辞典』)荼枳尼天は「密教で説く、自在の通力をもつ女性夜叉(やしゃ)神。日本では稲荷の神や飯綱権現と同一視される」(同上)。そして、「人の死を六ヶ月前に予知してその心臓を食うとされる」(『大辞林』三省堂) 梵字曼荼羅(左)と熊野本宮八葉曼荼羅(右)曼荼羅は「密教で、仏の悟りの世界を表現するために、多くの仏や菩薩などを体系的に描いた図」(『日本語大辞典』)を意味します。つまり、ここでは熊野の神々を曼荼羅図で描いたもの。右の図は、中央の蓮の花を意味する八葉に熊野の神々を本地仏の姿に置き換えて描き、上段には「役行者と八童子」(修験道の世界)、下段には五体王子を始めとする王子達が描かれているのです。梵字曼荼羅はこんな変換が行われているようです。熊野の神々→本地仏→種字(仏菩薩それぞれに当てられた梵字1字)→梵字キリークそしてそのキリークが八葉に記されて、梵字曼荼羅になっているという次第です。 熊野曼荼羅新熊野神社が考えておられる神の世界を熊野本宮八葉曼荼羅を基にして描いたものとされています。四角の外枠は結界で内側が新熊野神社の境内。境内が「神の世界」を意味します。「九のブロックに分け、空中に浮かせているのは、神が空間を超えて存在していることを、ブロック間に隙間を設けているのは、前から覗けば永遠の過去が、後ろから覗けば永久の未来が見通せる。つまり、この曼荼羅で『神が時空を超えた存在』であることを示しているのです。」(資料7) 発心門王子と梵天 滝尻王子と帝釈天発心門王子は人々を熊野信仰の入口でこの世界に導く案内人で、滝尻王子は聖地熊野の入口を守護する神という役割を担う神です。「発心門王子は心の迷いを吹き飛ばし、一念発起を促す神。滝尻王子は家庭や家族を守る神」(資料7)だといいます。梵天と帝釈天は仏教の護法神ですので、それぞれの本地に相当するということでしょう。 八咫烏日本神話に登場する三本足カラスです。 『日本書紀』巻三の「神武天皇」にこの八咫烏が登場します。神武天皇が軍を率い、熊野の荒坂の津に上陸してから、山中で道に迷ったときに、八咫烏が現れます。「・・・迷っているとき、夜また夢を見た。天照大神が天皇に教えていわれるのに、『吾は今、八咫烏を遣わすから、これを案内にせよ』と。はたして八咫烏が大空から飛び降ってきた。・・・このときに大伴氏の先祖の日臣命は、大来目を率いて、大軍の監督者として、山を越え路をふみ分けて、鳥の導きのままに、仰ぎ見ながら追いかけた。ついに宇陀の下県についた。」(資料8) 文覚上人像 文覚上人は高尾・神護寺を再興した高僧ですが、『平家物語』を読むと、「文覚の荒行の事」という条の冒頭が、頼朝の挙兵を「高尾の文覚上人の、すすめ申されけるによつてなり」という記述から始まっています。しかし、文覚は治承2年に神護寺に帰っていることから頼朝の挙兵とは無関係であるというのが史実のようです。平家物語を読んでも、文覚の出家した理由には触れていません。修行に出る前に、6月の無風で太陽の照る時に、修行の試しと、山里の藪の中で、裸になり仰向けに寝て、虫などに身をさらすことを7日続けたというエピソードを語った後に、熊野へ行っての那智籠りの語りが記されています。12月10日すぎの雪降り積もり凍結する最中で、滝に入って行をしたという話です。5日目に滝からおし落とされて5,6町流されて童子に引き揚げられるのです。そして再度一から始め7日間の行を成し遂げたと記されています。日本全国で修行し、都に帰った時は、「およそ飛ぶ鳥をも祈り落とす程の、刃の験者とぞ聞えし」という語りでこの荒行のエピソードが終わります。この後、神護寺再興の勧進の話に語り継がれて行きます。『平家物語』では、文覚が那智に千日籠もったと記しています。なぜ、ここに文覚か、という理由がよくわかります。文覚上人像の隣には、左から制多迦(せいたか)童子、不動明王、衿羯羅(こんから)童子が描かれた像が置かれています。 熊野三山下之社の背後、つまり北側で、この京の熊野古道の東端にあるのがこれです。那智の滝(那智の新宮)、熊野川と音無川の合流地点の中州にあった大斎原(おおゆみのはら)(本宮)、熊野川河口神倉山の山頂(速玉の新宮)が描かれています。 若宮社と下之社の間の道から境内の平地に降ります。訪れた時はこちらの小社は工事中でしたので、写真を撮りませんでした。若宮社は本殿の東隣、若宮社の東に下之社があります。若宮社の祭神は天照大神で、下之社の祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと:穀物・養蚕の神)・軻遇突智命(かぐつちのみこと:火の神)・埴山姫命(はにやまひめのみこと:土の神)・弥都波能売命(みずはのめのみこと:水の神)が祀られています。京の熊野古道の出口から出て、下之社の手前にあるガラスケースには、軻遇突智命が左右に本地仏の文珠菩薩(左)と普賢菩薩(右)の姿像で、中央には埴山姫命が毘沙門天の姿像が納められています。 その隣に、「花の窟」があります。熊野信仰の原点とされる場所が描かれているのです。以前に訪れた時以降に設けられたのでしょうか、気づかなかったものを発見しました。 それがこれらです。正面の鳥居を入って境内の右側に色鮮やかな碑や説明板が立っています。左端は「今熊野猿楽図」の碑です。猿楽を演ずる場面が複数大きな石板に描かれています。右端は石碑の基壇に「世阿弥 義満 機縁の地」と刻されています。中央の説明板には、上段には京の熊野古道のところでも見られる「旧熊野本宮大社図」とともに説明文が記されています。中段には「新熊野神社復元図」とともに説明文が記されています。下段に「今熊野猿楽」についての説明が記されています。近年の研究として、今熊野猿楽が応安7年(1375)にこの新熊野神社の境内で、「水無月祭(旧暦6月15日~17日)の例祭当日に、大和結崎座の観阿弥・世阿弥父子によって演ぜられたと考えられているのです。当時、新熊野神社は足利将軍家や北朝歴代天皇と密接な関係があり、水無月例祭に参列した後、三代将軍足利義満が観阿弥・世阿弥の演じる御前能を鑑賞したのだそうです。義満が世阿弥に惹きつけられる機縁となったのです。(説明板、資料9)現在毎年、仲秋の名月の日に行われる「くすのき祭」で今熊野猿楽が奉納されていると付記してあります。(説明板)その北側(つまり上掲写真の右端)で少し手前にこの碑と碑銘があります。この「能」碑と碑銘は昭和55年(1980)10月16日に今熊野猿楽復興委員会により建立されています。左の碑文は林屋辰三郎博士によるものです。旧字を現代の文字に置き換えて引用し、ご紹介します。上記と重複する部分がありますが、ご了解ください。「王朝の昔から神事や後宴の法楽に演ぜられた猿楽は大和結崎座の大夫観阿弥とその子世阿弥によって今日伝統芸術として親しまれる能にまで仕上げられた。その端緒となった時は今から六百年余前の応安七年、場所はここ今熊野の社頭だった。古く八百二十年前永暦元年後白河上皇が御願をもって紀伊熊野の森厳なたたずまいを移されたこの地で猿楽能を見物した青年将軍足利義満は当時十二歳の世阿弥の舞容に感銘した。そして世阿弥を通して能の大成を後援し、一に幕府の式楽として採用したのである。現代の能の隆盛につけてもその日のあでやかな世阿弥の風姿を知る老樟の下に往時を追懐し、今熊野猿楽の復興を志す人々が一碑を建立して、この史実を記念することになった。ここに請われるまま碑銘の文字を世阿弥自筆本花鏡のなかから撰ぶとともにその由来を録して社頭の繁栄と能の発展を併せ祈願するしだいである。」夕刻が迫る神社境内もまた静かで心落ち着くものでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p2252) 御由緒 :「新熊野神社」3) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p86-874) 境内案内 :「新熊野神社」5) 影向の大樟 :「新熊野神社」6) 聖護院 :ウィキペディア7) 京の熊野古道 :「新熊野神社」8) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p959) 今熊野猿楽 :「フィールドミュージアム・京都」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺新熊野神社 ホームページ今熊野猿楽 :「立命館大学アート・リサーチ・センター」今熊野猿楽 pdfファイル :「新熊野神社」Noh Nogaku 申楽(猿楽) 京都・新熊野神社 - 能楽発祥の地 :YouTube今野猿楽復活プロジェクト 取材報告 2012.6.11 :「project operation」猿楽 :ウィキペディアそもそも、能の起源とは? :「宝生会」熊野本宮大社 ホームページ熊野速玉大社 公式サイト熊野那智大社 ホームページ熊野那智大社 :「那智勝浦町観光協会」熊野三山 :「熊野ツーリズムビューロー」熊野曼荼羅 根津美術館 :「文化遺産オンライン」宝物殿ご案内 :「熊野本宮大社」 主な常設展示品の例示の中に、熊野本宮八葉曼荼羅の掲載と説明があります。八咫烏 :ウィキペディア3本脚の「ヤタガラス」を捕獲、神話裏づけ 島根・出雲産大 :「虚構新聞」本地垂迹説 :「玄松子の記憶」本地垂迹 :ウィキペディア垂迹神部 :「寺社関連の豆知識」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山七条あたりの鬼たち へスポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想 へスポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか) へスポット探訪 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