スポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -1 表門・一夜天神堂・本堂・狂言堂
2017年第51回「京の冬の旅」(非公開文化財特別公開)の期間終了間際の3月16日午後に、壬生寺を訪れました。壬生寺境内にある「新選組隊士墓所 壬生塚」と「八木邸(壬生屯所跡)」などは京の幕末動乱期の一つとして、新選組関連でご紹介しています。ここでは、壬生寺そのものの特別公開拝観及び壬生寺境内の探訪として、ご紹介したいと思います。冒頭の画像は壬生寺の表門を北東側から眺めた景色です。南北の通りで言えば、東の大宮通、西の千本通の中間に位置する「坊城通」に東面しています。表門の正面には、「壬生延命地蔵尊」と白字で記された大きな扁額が掛けられています。門から真っ直ぐ西に本堂が見えます。今季の特別公開では、この本堂内で本尊を直に拝観できることと、「壬生狂言」の舞台となる「大念仏堂」(重文)の建物内部と舞台を拝見できることがハイライトでした。表門を入ると、すぐ右側(北)に「一夜天神堂」があります。江戸時代前期に、託願上人が菅原道真の霊より夢告を得て、神像を上人自ら刻み、御社を建立されたといいます。その神像を「一夜天神」と名づけられたことが、由来だそうです。現在のこの御社は嘉永5年(1852)の再建によるもの。御堂内には「一夜天神」を中央にして、壬生寺の鎮守である「六所明神」と伽藍守護の神である「金比羅大権現」が合祀されているそうです。 お堂正面、左の柱に「天満宮」の扁額が掛けてあります。屋根の鬼板は星梅鉢紋がレリーフされています。 お堂の西側に大きな宝篋印塔が建立されていて、その斜め背後に境内案内板が設置されています。この「壬生寺案内図」に丸印を追記しました。赤丸が表門で、黄緑色の丸が一夜天神堂です。この後、まずは真っ直ぐに青丸の本堂を拝観し、その後にマゼンタ色の丸をつけた大念仏堂(狂言堂)を訪れました。境内側から眺めた表門です。本柱には切妻屋根がのせられ、一方内側の控え柱の方向にも小さな切妻屋根がのせてあります。高麗門の形式です。(資料1) 壬生寺歴史資料館でいただいたリーフレット(三つ折)の表紙です。 本堂 こちらは本堂拝観の折にいただいたリーフレットです。本堂を正面から眺めた姿が載せてあります。現在の本堂は、1970(昭和45)年に再建された建物です。五間四面、屋根は入母屋造り、本瓦葺ですが鉄筋コンクリート造りで再建されています。壬生寺は奈良にある唐招提寺を総本山とする律宗のお寺です。壬生寺には、次の様な沿革があります。(資料2,3)伝承では鑑真を開山とする。 991(正暦2)年 「壬生寺縁起」によれば三井寺の僧快賢(快賢)僧都が一宇を建立 場所 五条坊門壬生の地(これは坊城通の東側になる) 仏師定朝に3尺の地蔵菩薩像を作らせて、本尊とした。1005(寛弘2)年 堂供養を行い、小三井寺と名づける。 ⇒後に白河天皇より「地蔵院」の寺号が与えられる。1213(建保元)年 平宗平が寺地を現在地に移し、伽藍を建立1257(正嘉元)年 焼亡 ⇒宗平の子の政平が伽藍を再興。宝幢三昧寺(院)に改称正安年間(1299-1302) 奈良の唐招提寺に学んだ導御(円覚)が堂宇を修復 融通大念仏を修し、募財活動を行い修復。 大念仏の法要に境内で猿楽を演じたのが現在の「壬生狂言」の起源と言われる ⇒地蔵信仰と融通念仏が結合し貴賤の信仰を集める。戦国時代 衰退豊臣秀吉・徳川家康、後陽成天皇の庇護をうける。⇒ 戸時代に隆盛を取り戻す。 近世には、京都二十四地蔵や洛陽四十八体地蔵の第一番札所となる。1788(天明8)年 天明の大火で全焼 ⇒ その後、堂宇が再建された。1962(昭和37)年 再建された本堂は本尊地蔵菩薩像とともに焼失本堂内は撮影禁止でした。拝観券に堂内の姿が窺えます。表門の前に今回立てられた案内看板の上部の写真です。この現在の本尊・地蔵菩薩立像(延命地蔵菩薩)は、本堂再建の際に唐招提寺から移された仏像だそうです。本尊は僧形で袈裟には載金文様が施されています。左手に宝珠を持ち、右手は与願印の印相姿です。像本体は桐を中心に檜を寄せて造られ、漆箔が施されているそうです。平安時代の造像で、像高166.6cm。現存する地蔵菩薩像の中では、日本最古の部類に入るものだそうです。(資料4,5)また、脇侍は2007(平成19)年に奉安されたもので、向かって右側が「掌善童子像」、左側が「掌悪童子像」と称されています。大仏師・中川大幹氏による造像で、載金は松久真や氏だそうです。像高は90.0cm。(資料4)本堂内の全景はリーフレットを引用しご紹介させていただきます。次回、公開されることがあれば、是非拝観してみてください。天井には壬生狂言で使われる衣装から採られた「向かい鳳凰の丸紋」が75cm角の格子の中に緻密に描かれています。本尊と脇侍を囲む形で、奧側には障壁画として様々な菩薩像が描かれ、両側面の手前は襖で、襖絵が描かれて居ます。手前の向かって左側の襖絵は「地獄変」がテーマとなり、右側は「浄土幻想」がテーマとなっています。友禅画家のあだち幸(さち)氏が「友禅画」の技法で描き出されたそうです。(資料4,5) 見応えがありました。この後、「狂言堂」(大念仏堂)に向かいます。上掲案内図にマゼンタ色の丸を付けた場所です。本堂からは北東方向になります。手前の建物の北側側面が、壬生狂言が開催されるときの観覧席になります。かなり以前に、一度拝見したことがあります。雛壇状に坐るスペースが設けられていたと記憶します。左側の建物が「狂言堂」です。この画像では奧側の戸が閉められているところが、建物二階の舞台部分です。 少し違う位置から撮ってみました。 左の画像は、右の狂言堂への入口の門の左に設置されていた案内板上部の写真を撮ったものです。観覧席側から撮った狂言堂の舞台です。現在の建物は1856(安政3)年に再建された「大念仏堂」です。上記の通り、二階部分で壬生狂言が演じられるので、「狂言堂」とも呼ばれているのです。上掲左の画像に見えるように、建物の西側に「本舞台」があり、東側が「橋掛かり」という位置づけになります。本舞台の前面から一間下がって東側に橋掛かりがあり、その前のスペースが「飛び込み」と言われる空間です。演目の「土蜘蛛」では、まさに本舞台の欄干を超えて、「飛び込み」の空間に飛び込むという所作が行われるようです。また、「獣台」という構造も造られています。当日建物内で説明を拝聴した折の記憶が正しければ、歌舞伎舞台の花道の七三にある「すっぽん」と呼ばれる役者が奈落からせり上がる場所と同じ機能構造を持たせた箇所だったと思います。人力の手動構造だったと記憶します。これは、2010(平成22)年、高島屋大阪店で開催された「京都壬生展」の図録です。特別公開の箇所を拝見した後、阿弥陀堂の売店で購入しました。図録のセクションⅣに「壬生狂言」で使われる面の写真がズラリと並んでいます。大念仏堂の西側に位置する玄関を入ると、「客間」があり、その奧(東)が「面の間」で、壁面には楽屋面掛けが設けてあります。狂言の実施される時は、そこにズラリと面が掛けて並べられるとか。部屋に数面だけ展示がしてありました。面の中には、「壬生三面」(猿・狛蔵主はくぞうす・姥)と呼ばれるものは、その制作が室町時代にまで遡る優品だそうです。客間の南側は「小道具の間」で、狂言道具が一部置かれていました。「面の間」の南は「衣装の間」で、ここに狂言で使われる衣装類が維持管理、保管されているそうです。小道具の間の西端から二階に上がっていきます。舞台の北側壁面に仏壇が設けられていて、「地蔵菩薩半跏像」が安置されています。普段はここがお堂でもあるのです。二階での説明を担当されていた女性の方が、この二階部分は舞台と橋掛かりの戸が取り払われている時、つまり壬生狂言が行われる期間は、ここに女性は上がれないしきたりがあるとおっしゃっていました。戸が嵌め込まれて閉じてある時は、お堂という形になり、お参りに上がることができるという意味合いの説明をお聞きしました。地蔵堂と狂言堂を兼ねるという興味深い建物です。狂言堂の屋根の鬼板には菊の紋がレリーフされています。大念仏堂の外側ですが、アルミメガネシートを使った柵で囲われています。この説明板が設置されています。「壬生寺大念仏堂土塀防護柵」が重要文化財の保護のために設けられたそうです。 私は、防護柵の内側で、土塀沿いに並べられた石仏像群に惹かれました。さて、「壬生寺狂言」について、資料等で学んだことを覚書としてまとめておきたいと思います。(資料2,3,6)*壬生狂言は、上記のとおり導御の大念仏会に始まると伝えるが、記録の上では室町後期ころから壬生寺で芸能が行われていたことが確認されている。*頭を白布で包み面をつけ、鉦・太鼓・笛による囃子に合わせて演じられる無言劇。*「ガンデンデン、ガンガンデンデン、ガンデンデン」とはやしがつけられる。*演者は壬生郷士と称され、かつてのこの地域の名主層で構成された「大念仏講」中の人々。*壬生狂言として3つの系統のものが30演目あるという。 能楽系 14演目 「大江山」・「土蜘蛛」など 能狂言系 5演目 「花折」・「花盗人」など 壬生狂言独自のもの 11演目 「桶取:・「山端とろろ」まど*内容的には、地蔵尊の利生をあらわす宗教的なものや子供の喜ぶ修羅物が多い。*壬生狂言の演じられる日は、序曲として「焙烙割り」がはじめに上演される。 ⇒焙烙は節分会に奉納されたもの。焙烙が割られることで厄が落ちるといわれている。 ⇒割られた焙烙の破片は台所に吊る(→油虫よけ)、井戸に入れる(→虫がわかない) という言い伝えがあるとか。*図録には、壬生三面の他に30面が載っている。その名称で少しイメージが膨らむ。 面の名称:猿、狐、地蔵、閻魔、赤鬼、茨木、土蜘蛛、鬼神、酒呑童子、蟹殿(カニドン) 鬼王、頼政、知盛、とくす、おんな、大多福(オタフク)、十郎、五郎、牛若、僧 旦那、大尽(ダイジン)、阿保、頼光、保昌、太刀持、弁慶、酒蔵、熊坂、綱*壬生狂言演目の名称 1) 愛宕詣り 2) 安達が原 3) 大江山 4) 大原女 5) 桶取 6) 餓鬼角力 7) 蟹殿 8) 熊坂 9) 賽の河原 10) 酒蔵 金蔵 11) 節分 12) 大仏供養 13) 大黒狩 14) 玉藻前 15) 土蜘蛛 16) 道成寺 17) ぬえ(鵺) 18) 橋弁慶 19) 花折 20) 花盗人 21) 舟弁慶 22) 炮烙割り 23) 堀川御所 24) 本能寺 25) 棒振 26) 紅葉狩 27) 山端とろろ 28) 湯立 29) 夜討曽我 30) 羅生門 これら30番の演目の解説は、壬生寺のこちらのページからご一読ください。 (「壬生狂言の年間定例公開」 壬生寺)*壬生狂言には台本がなく、見覚え、聞き覚えにより演出され、伝承されてきたという。*重要無形民俗文化財に指定され、京の三大狂言の一つ ⇒ ほかの2つは「嵯峨釈迦堂狂言」と「千本閻魔堂狂言」壬生狂言は、春に行われる「大念仏会」の期間に演じられ、毎年秋には特別公開として10月の連休の3日間にも上演されています。上演される期間中は、午後1時~5時30分ごろまでに5あるいは6演目が上演されるのです。鑑賞席は当日の自由席のみで、約400席で満席となるくらいの規模です。満席の場合は入場制限も行われるとか。また、節分の折にも別途2日間上演されています。序でにご紹介です。この2017年の春の公開はもうすぐ! 期間 4月29日~5月5日 午後1時~5時30ごろ (受付・開場 午後12時30分頃) 毎日異なった演目を連続して5演目上演 鑑賞料 大人800円、中高生600円、小学生400円 自由席、 満席(約400席)では入場制限が行われます。雨天でも上演、ただし鑑賞席は半分に。 境内探訪をつづけます。参照資料1) 高麗門 :「鎌倉の古建築」 高麗門 :ウィキペディア2) 『京都府の歴史散歩 上』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p88-893) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p312-3174) 「壬生寺 本堂」 本堂拝観の折にいただいたリーフレット 5)『第51回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』 京都市観光協会6) 展覧会図録「京都壬生寺展 念仏の心とともに新たなる一千年の願い」 NHKサービスセンター 編集・発行 平成22年1月 補遺壬生狂言〝Mibu Dainenbutsu Kyogen” ~ Horakuwari (Plate Breaking) ・Tsuchigumo (The Demon Spider)~ :YouTube壬生狂言「炮烙割」(2015年秋)京都 :YouTube壬生狂言「炮烙割」 :YouTube日本でも珍しいセリフを用いない宗教劇「壬生狂言」【HD】 :YouTube壬生狂言「土蜘蛛」 :YouTube【新選組ゆかりのお寺】壬生寺 節分会 Mibu-dera temple / 京都いいとこ動画 :YouTube壬生狂言「節分」披露 :YouTube京都 壬生寺節分厄除大法会2017 :YouTube京都の六斎念仏(壬生寺にて) :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -2 夜啼き地蔵・水掛地蔵・中院・三福川稲荷堂・句碑ほか へスポット探訪 京都・中京 壬生寺細見 -3 鐘楼・南門・千体仏塔・表門 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ