探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観)
京都新聞の報道記事で建仁寺塔頭の一つである「両足院」の庭に半夏生が咲き始め、特別拝観が行われているというのを知り、6月に訪ねてみました。まずはこの時の記録整理を兼ねて、ご紹介します。四条通を八坂神社の方向に東へ歩き、一力の赤壁のところで右折して、花見小路を南に下ると建仁寺の北門が突き当たりにあります。門を入るとほどなく法堂が見えます。境内のの東側には様々な建物が並んでいます。その一つが「両足院」です。法堂の大凡東方向に位置します。冒頭の案内板が門前に置かれていました。 西面する石段の先に冠木門があり、「毘沙門天王」と刻された石標が向かって右に立っています。門を入った右手に、屋形石灯籠が置かれています。石畳の通路の先、正面左横に手水舎があり、その右側奧の建物の入口近くで特別拝観の受付が行われていました。冠木門を入ったすぐ左側(北側)に「毘沙門天堂」があります。唐破風の拝所が御堂の正面にあり、「毘沙門天」の扁額が掛けてあります。 この御堂は、鞍馬山にある鞍馬寺でお祀りされている毘沙門天像の内から出て来た胎内仏と呼ばれる仏像が祀られています。現在は、勝利をもたらす仏像として、地元の人々の信仰を得ているそうです。また、軍師黒田官兵衛として有名な孝高の長男・黒田長政が信仰していた毘沙門天像が代々黒田家で信仰されてきたそうですが、明治10年ごろに、ここ両足院に寄進されたそうです。その尊像は、徳川家康側で関ヶ原の戦いに出陣する黒田長政が内兜に収められていたものだそうです。毘沙門天像を我が身につけて、奮戦し勝利したといいます。(資料1) 手前には阿吽形で一対の石造獅子が動物園でよく見かけるような歩み寄る自然体の姿で造形されています。唐破風の獅子口と、御堂の屋根の獅子口はともにシンプルな造形です。 毘沙門天堂の両側に、この青銅製灯籠が奉納されています。 興味を引かれるのは、笠上の宝珠が火焔宝珠に造形され、蕨手(わらびて)の部分が鯱になっていることです。火袋が全面同じ唐草文様の透かし彫りとなっています。中台に龍の全身像が各面に浮彫にされています。こちらはよく見かける類型です。拝観受付をした建物から廊下伝いに進み建物内と庭を拝見をしていきました。その際、建物室内は撮影禁止でしたが庭部分は撮影OKでしたので、建物に付属する坪庭や中庭もご紹介できます。 靴置棚の近くで見た坪庭 踏み段を上がり、廊下から見下ろした坪庭の姿廊下を進むと、回廊となった中庭があります。そこには一隅に井戸が設けられています。庫裡と方丈の間にあるこの中庭は、両足院のホームページを参照すると、「閼伽井庭」と称されています。この井戸は閼伽(仏壇に供える水)を汲む井戸なのです。庭の白砂に目を転じると、屋根の樋を受けた円柱筒が立っていて、その地面にあたかも水が流れ落ち、それを淵源にして流れゆく形で白砂の上に水流が描かれています。 井戸の上には釣瓶の滑車が見えます。白砂の水の流れは井戸を時計回りに回り込む形で描かれています。 そして中庭に造形された植栽の島の周囲を巡ります。その先の一隅には小振りな石灯籠と水鉢があります。水鉢は井戸で汲んだ閼伽を受けるためのものだそうです。井戸とこの水鉢がこの中庭の象徴だとか。水鉢に近い島の部分に置かれた石は三尊石を意味するようです。建物外縁の廊下部分を回り込む前に、違った角度から中庭を撮ってみました。 中庭の周囲の屋根の上を眺め、そこに見た鬼瓦です。 こんな坪庭も。渦巻き文様で坪庭が広くなるように感じられます。方丈の建物の庭側に回り込みます。ここの場所で、ここからの庭園散策希望者は茶室「臨池邸」での呈茶付きで別途追加金というオプションになっていました。私は建物外縁の廊下を巡る形での庭園拝見だけにしました。庭に降りる回廊の白壁と円窓が一つのアクセントになっています。白壁がくすんでいないのが素敵です。 回廊部に降りる階段の近くからの庭の眺め 反対側には石組が見られます。 庭の一部は少しゆるやかに高くなっていき、丘に見立てられているのでしょうか。その上の方に五重石塔が置かれています。一方、左の画像のように、方丈の正面になるこの庭に向かって左端には中門が設けてあります。この門が茶室への内潜戸の役割を担っているのかもしれません。手前には飛石があり、こちらの庭に池の一部が組見込まれていて、その池端はこの門の先の庭に広がる池の始まりとなっています。門の手前に水盤の様な石造物が見られます。 中門の側面から眺めた池の景色 少し立ち位置を移動して門を主体に、あるいは池を主体に撮ってみると・・・・・。 門側の外縁廊下から眺めた庭の景色庭園散策を希望した人は、この画像の左端にある石敷きの散策路を通り、茶室のある庭の方に巡って行くことになります。方丈には、本尊として阿弥陀如来が祀られています。建仁寺は臨済宗のお寺で、開祖栄西が1202年に創建しました。栄西の入滅後、直系の弟子達がその墓所を守っていたのですが、1358年に龍山徳見が入滅したとき、開祖栄西の墓所と龍山徳見の墓所を寺域として区別したそうです。龍山徳見は、真源大照禅師とも称されます。栄西の墓所は「護国院」となり、こちらの寺域は「知足院」と称されたそうです。その知足院は1536年の火災で焼亡します。「両足院」は南北朝貞和年間(1345-50)に龍山徳見を追請開山として、法嗣文林により開創された塔頭だそうです。再建された折に改称されたといいます。両足院もまたその後に被災、修復と再建を繰り返してきたようです。現在の方丈は、檀越白木屋大村彦太郎の寄進によるものだとか。1850年から数年かけて再建された建物なのです。(資料1,2)龍山徳見は建仁寺第三十五世で、元に留学した僧であり、中国生まれで、中国で徳見に帰依し弟子となった林浄因を伴って帰国したそうです。(資料1,2,3)上記の法嗣文林は、林浄因三世の孫にあたる人だとか。(資料3)林浄因は来日し、奈良に住して饅頭を作って家業としたといいます。そのため両足院は「饅頭」の文化を日本に伝えたお寺となり、「饅頭始祖の寺」としても有名だそうです。私はこの探訪で初めてしりました。「饅頭屋始祖林家墓」が境内墓地にあるそうです。なお、林浄因は龍山徳見の死去の翌年、妻子を残して帰国してしまったとか。(資料1,2)林浄因が奈良に住み、饅頭作りを始めたことが、「奈良饅頭」の起こりとなります。近鉄奈良駅から「やすらぎの道」を少し南に歩いたところにある漢国神社の境内に、昭和24年「林神社」が創建されているそうです。また、林浄因が宮女と結婚した時、子孫繁栄を願って紅白饅頭を埋めたとされる「饅頭塚」という史跡もあるようです。、林浄因の饅頭は漉し餡を白い皮で包んだものであったと推測されています。(資料4)余談ですが、白木屋は日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店の一つで、白木屋(デパート)として、日本の百貨店の先駆的存在です。現在の東急百貨店のルーツでもあります。歌川広重が幕末期の白木屋を浮世絵に描いています。また、昭和初期に発生した「白木屋大火」も歴史に名を残しています。(資料5,6)つづく参照資料1) 拝観の折にいただいたリーフレット2) 『昭和名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p250-2633) 両足院 :「京都はんなり旅」4) 奈良饅頭 :「奈良女子大学」5) 白木屋(デパート) :ウィキペディア6) 白木屋 :「コトバンク」補遺両足院 ホームページ両足院 :「KYOTOdesign」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -2 両足院(半夏生咲く)へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -3 勅使門・放生池・三門・法堂 へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -4 陀羅尼鐘・西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -5 禅居庵 摩利支天堂 へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -6 霊洞院(僧堂)・大統院・[霊源院] へ