探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望
「近江湖の辺(うみのべ)の道」の説明板の傍を山裾へ少し坂道を上っていくと、ここでも万葉歌碑に出会います。 何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟 1172この歌の所収されている直前とその少し前にもこの地と関連する、あるいはするかもしれない歌が載っています。(資料1) 大御舟泊(は)ててさもらふ高島の三尾(みお)の勝野(かちの)の渚思ほゆ 1171折口信夫は、三尾を御尾と表記して、近江高島郡としています。『上宮記』にはこの地域が彌呼(みお)の国と呼ばれ、高島はその一部だったと記しています。説明碑にあるように、御尾ノ埼は今の明神崎の事と説明しています。「みをの地形は川の峡谷を出た地点を斥す様であるから、御尾の地も、三尾川を中心にして拡がったもの」だとします。勝野は「高島郡の南方の沼沢地の墾かれなかった地と思はれる。後期王朝に勝野津と言ふのは、湖水に面した船泊まりで、明神崎の北陰であらう」と言います。(資料2)歌意は「波が高いので、天子の御船が、泊って船を出す時分を考えている所の、あの高島郡の三尾の、勝野の波うちぎわが思われる。私も行ってみたい。」(資料3) 近江の海湖(みなと)は八十をいづくにか君が舟泊(は)て草結びけむ 1169こちらは三尾崎、香取の浦であるとは言えませんが、歌の所載順などを見ると、近い関係にあるのかもしれません。折口信夫は「湖(みなと)」を「水門(みなと)」と表記しています。「知った人の曾遊を思う。今近江の湖水に来て見ると、港が何十ともしれぬ程あるので、あの人が船を止めて、草を結んで枕として寝たと云う処は、何処だかわからない」(資料2)高島は古代から湖上交通の拠点の一つでもあったということなのでしょう。上掲の歌碑が建てられた地点の前の山路が、実は都と北陸地方を結ぶ北陸道(古西近江路)だったのです。今回は古道の一部を歩くことができました。山路を南の方に進みます。 家並みの手前に見えるのが乙女ケ池です。そして、琵琶湖の広がりが遠望できます。 これは小さいですが、「打下の磨崖仏」です。少し離れたところに、「くさ地蔵」が路辺にいらっしゃいます。旅人の安全を守るかのように。 「最勝寺」に立ち寄りました。境内には蓮如上人行脚像が建てられています。左の画像の左側の石灯籠の先に少し写っていますが、ここには「蓮如上人御旧蹟」の石標が建てられています。近江の各地の寺々で石標や像をよく見かけます。その連鎖から蓮如上人の布教の足跡がイメージされてきます。この地の地下人だった山田正明が蓮如上人との出会い、それが契機でお寺への発展してきたようです。現在もその子孫の方がご住職をされていると聞いたように思います。本堂の屋根の棟には、「琶湖山」という山号が金色に輝いていました。現在は真宗大谷派のお寺です。ここから「打下(うちおろし)古墳」に向かいます。所在地は高島市勝野です。この古墳は、打下集落の南に位置する日吉神社背後の山腹で発見されました。打下上水道配水施設工事中、2001年11月7日の早朝、山腹の工事現場から石棺が現れたのです。そして発掘調査してみると、石棺内より良好な状態の人骨が発見されました。下山の時に撮ったのですが、上水道設備がある傍ですので、坂道には門扉があります。(開閉さえきちんとすれば古墳を見学にいくことは自由にできるようです。)坂道を上って行くと通路の右手に上水道関連施設、左側に古墳が見えます。今は古墳の上にも上がれるように整備されています。古墳からさらに通路を上がり、上水道設備の傍から眺めた打下古墳全景。南から北を眺めていることになります。数人の人が立っているところが古墳です。古墳の上には、古墳の概略説明をした石板碑が置かれています。別の機会に高島歴史民俗資料館を訪れた時、いただいた資料で写真の説明以外のことを少し補足しましょう。古墳の築造年代は、説明にあるとおり古墳時代中期と考えられ、主体部の箱形石棺は棺内が朱塗りで、副葬品として鉄刀一振、鉄剣一口、鹿角装具が発見されています。石棺外には約10本程度の鉄鏃が一束あったとか。古墳の特徴として「日本海沿岸の丹後地方に多く見受けられる埋葬方法から、地域間交流がうかがえることです」。(資料4)また、「被葬者の活躍していた5世紀代は、大和政権が日本列島各地域の首長を傘下に入れ、統一国家に向け始動していた頃で、この被葬者も大和政権のもとで、大和(奈良県)と北陸諸国を結ぶルート上の勝野の地を治めていた村長クラスと考えられています」。(資料4)高島歴史民俗資料館で見た「打下古墳被葬者復顔」像の人物が埋葬されていた古墳現地を一度訪れてみたかったのです。天気が好くてハッピーでした。 この写真が、資料館に展示されているもの。一度、同資料館を訪ねてみてください。 打下古墳の上からは、乙女ケ池が眼下に眺望できます。古墳の位置から、通路をさらに少し上がると上水道施設の端のところに少し上れるスペースがあります。別に、ちょっとした平坦な小さい広場も。ここから東方向に琵琶湖の北部全体が遠望できます。まさに絶景です。この日は天気が良くて、琵琶湖の眺望をしばし満喫できました。嗚呼、淡海や、淡海や!・・・・というところ。古墳から坂道を下って、麓の日吉神社で小休止。 神社の本殿 この社殿前の狛犬が少し特徴的でした。まずその容貌の表現が独特の感じです。一般的に見かける顔立ちとは若干異なります。また、狛犬の台座側面の浮彫も左右異なるデザインです。 もう一つ、本殿建物の木鼻や蟇股、柱などの側面が白く塗装されているのに気づきました。安曇川町田中に所在の田中神社を訪れた時、初めてこの白く塗るという様式を知りました。継体天皇関連での探訪の途中でした。 社殿の前に建つ舞殿には、木彫龍の額が掛けられていました。この神社は廃絶となってしまった長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まるそうです。お寺は消滅しましたが、神社は土豪高島氏の崇敬を得て存続したのです。元亀3年の織田信長と浅井氏の戦いにおける一連の兵火で焼失。その後、織田信澄が社殿造営、豊臣秀頼の命を受けて片桐且元が白鬚神社造営の時にこの神社を修補したのだとか。江戸時代には、大溝藩主分部氏の保護を得ることで、社頭が整備されたそうです。余談ですが、『信長公記』を調べていると、元亀3年7月24日の条に、信長の命で海上からの敵地攻略に「打下の林与次左衛門」が明智十兵衛、堅田の面々とともに出陣していることが載っています。「打下」と言うのはやはりこの辺りのことでしょうね。信長の敵・味方がやはり入り乱れていたということなのでしょうか。(資料5)この後、「鵜川四十八体石仏群」に向かいます。道路から少し奥まったところに、ここにも蓮如上人の足跡を示す石標が目にとまりました。この石標が北側から石仏群に行く入口の目印です。湖岸沿いの道路から分かれて山復に至る道が右手にあります。 そして、分岐した道の入口右手側に、万葉歌碑が建てられています。 思ひつつ来れど来かねて水尾が崎真長の浦をまだかへり見つ 1733説明碑に記されていますが、この歌は作者がわかっています。萬葉集の歌の前書きに「基師の歌二首」と記されていますので。岩波の佐佐木信綱編では「基師」としていますが、折口信夫は説明碑と同じで「碁師の歌二首」としています。また、説明碑には「思ひ」にルビが振られていません。佐佐木は「しのひ」とルビを振り、つまり「しのび」と読ませています。一方、折口は底本が違うのか、万葉仮名の解釈の違いなのか、定かではありませんが、「偲び」と表記しています。歌の表記が他にも若干違いがあります。こんなちがいです。(資料1,2,3) 偲びつつ来れど、来かてに、水尾个崎。眞長(ノ)浦を、また顧みつ「恋い人の事を思いながら、やってくると、いくら行っても行きにくくて、あの人のいる、水尾个崎の辺、眞長の浦をふり帰って見たことだ。」(現代仮名づかいに修正、資料2)水尾は三尾と同じ扱い。昔の人は漢字そのものより「ミオ」という音に漢字を当てはめるという感覚だったのでしょうね。音と漢字が固定するのは第二次大戦後の義務教育からだけなんでしょうか・・・・。昔の人はおおらかだったのですね。あれ、違うのでは・・・・と、混乱するのは、現代人で、専門研究者あるいは準じた人々ではない一般人というところでしょうか。基師(碁師)のもう一つの歌は、 大葉山かすみたなびきさ夜ふけてわが船はてむ泊(とまり)知らずも 1732万葉集の編者の方針なのでしょうか。「基師の歌二首」の次に、「小辨の歌一首」と前書きの付いた歌が載っています。 高島の阿渡の湖(みなと)をこぎ過ぎて盬津(しほつ)管浦(すがうら)今かこぐらむ 1734折口は万葉集辞典で、阿渡について、次の説明を記しています。「近江国高島郡の地名。湖岸に在る。此地方を遠江(トホツアフミ)と言ふたらしい。阿渡川・阿渡の水門などある。今、舟木の地であらうと言ふ」と。つまり、安曇川の河口のことで、現在の地名では、安曇川町北船木、南船木というあたりをさしているのでしょうね。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 どうも脇道に迷い込みがちです。つづく参照資料1)『新訂新訓 万葉集 上巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p2912)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫 p3403)『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辞典』 中公文庫4)「打下古墳」リーフレット 高島歴史民俗資料館にて入手5) 日吉神社 :「滋賀県神社庁」 『新訂 信長公記』 大田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p129【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺最勝寺(高島) :ウィキペディア其の五十四 打下古墳の被葬者 :「新撰 淡海木間攫」 日吉神社(高島市勝野) :ウィキペディア 日吉神社(勝野) :「高島市観光情報」 大溝祭について :「湖西唯一の曳山 大溝祭」大溝祭 :「滋賀県観光情報」小辨 → 小弁 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ