探訪 京都・東山 親鸞聖人・2つの荼毘所址
手許にある『昭和京都名所圖會 洛東-上』を読んでいて、「親鸞上人火葬地」という見出しが目にとまりました(資料1)。そこはかなり以前に一度偶然に道路傍の門柱の表記で参拝した場所とは異なるところでした。そこで、先日この2つの荼毘所(火葬地)址を探訪・参拝してみました。2つの荼毘所は「鳥辺野」と称された広域の中で、かなり対照的な位置にあります。探訪後に少し調べて得た情報も併せて、整理しご紹介します。冒頭の地図は、東大路通の傍で目に止まった地図。この地図は最初の探訪地へのスタート地点といえるところを示すために、まず掲げてみました。「親鸞上人火葬地」の項目に記載の場所に行くためのガイドです。1262年(弘長2)11月28日、三条富小路(=左京押小路南万里小路東の地)の善法房(坊)で、親鸞聖人は90歳をもって没しました。ここは、親鸞の舎弟叡山東塔の尋有の房と推定されているとか。(資料2,3,4)没後、「洛陽東山の西麓、鳥辺野の南のほとり、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾て、同山の麓、鳥辺野の北辺、大谷にこれをおさめ畢ぬ。」(資料5)と伝わるのです。この延仁寺荼毘所の址は永らく所在地が不明となりました。というのは延仁寺は応仁の乱後、廃絶し、延仁寺の旧寺地は「正保年間(1644~48)に泉涌寺塔頭戒光寺の所有に帰し本尊も同時に収めた。幕末になって本寺の消滅を惜しんだ恵隆が慶応元年(1865)再興し戒光寺より本尊を戻して、西光寺と称し、明治16年、延仁寺と改めた」と言います。(資料1,6)現在の「延仁寺」の所在地は東山区今熊野南日吉町です。これでまあ、冒頭の地図に戻ります。今回、私が歩いた経路でご紹介します。詳細な地図(Mapion)はこちらを御覧いただきたいと思います。JRと京阪電車が合流する「東福寺」駅(地図の赤丸のところ)で下車し、本町通(旧伏見街道)を少し北に上り、 (地図のマゼンダ色の丸のところ)「瀧尾神社」の南側、五葉の辻を東に歩みます。ここは昔の泉涌寺道だったそうです。この道は東大路通に出ます。道路を横断した北東方向に泉涌寺道が見えます。 (地図の紫色の丸のところ)泉涌寺道の北側、3本の細い通路の先に、東方向に少し幅広の道路があり、この坂道を東に上っていきます。途中に「剣神社」があります。これら2つの神社は拙ブログで既にご紹介しています。 地図を参照しながら、道を歩むと石段が終端となり、この石段を上ると「延仁寺」の南側に出ました。その道路が「醍醐道」です。この寺から東大路通に戻るときに「醍醐道」の坂道を下って行きました。東大路通から醍醐道への起点(地図の青丸のところ)の南側には、 この「鳥辺野陵 中尾陵 参道」の道標が立っています。東大路通を北から下ってくる場合ですと、JR東海道本線の上に架橋された「今熊野橋」を渡って左側(東)にすぐ見える東西の道路がこの醍醐道です。導入部が長くなりました。 醍醐道を西側から上ってきたときに見える景色がこれ。四阿の休憩所が設けられていて、道路脇には「親鸞聖人 御荼毘所」と刻された石標があります。道路の北側は駐車場スペースになっていて、駐車場側に立つと、 休憩所は樹木の背後になりますが、醍醐道の南側に「延仁寺」の山門が見えます。 山門をくぐると、東側に西面した本堂があります。「洛東山」という山号の扁額が掲げてあります。ここは山科に通じる滑石越(すべりいしごえ)と称される途中に位置するそうです。古名は瓦坂とも呼ばれたとか。上掲の石段を上ってきたように、この寺の南側は谷間になっている地形の途中にあります。このあたり火屋ヶ谷とも呼ばれるそうです。本願寺三世覚如上人もまた、延仁寺で火葬に付されたと言います。(資料1)孫引きですが、「慕帰絵」の詞書に次の一文が記されているそうです。(資料6)「第五日の暁知恩院の沙汰として彼寺の長老僧衆をたちなびき迎とりて、延仁寺にしてむなしき煙となしけるは、あはれなりし事の中にも、廿四日は遺骸を給へりしに、葬するところの白骨一々に玉と成りて仏舎利のごとく五色に分衛す」と記されているとか。「慕帰絵」は14世紀中頃に制作され、本願寺第3世覚如の伝記を描いた絵巻です。 駐車場から撮った景色に写るバイクの近くに、「見真大師御荼毘所道」の道標石が立ち、その手前に「親鸞聖人御荼毘所 230m先」と案内板もあります。 そのお堂内には「北向地蔵尊」が祀られています。この北向地蔵尊は古くから荼毘所跡にあったものと伝わるとか。(資料6)山の斜面は区画整理がされた延仁寺墓地になっていて、東側にこの墓地に沿う形で石段道があります。 私の道は /私にしか /歩めない いのちが /いのちに聞く /いのちの願い 信に死し /願に生きよ 曽我量深 南無阿弥陀仏 /限りある身を /限りなく生きる力 石段の途中にある「延仁寺納骨堂」右の灯明台の正面に次の章句が刻されています。 名モナキモノノ /名ニヨッテ 歴史ハ /荘厳サレル 名モナキモノニ帰レ 石段を上りきると、広がった平坦地があり、一段高くなった基壇が正面に見えます。 ここが「親鸞聖人荼毘所」とされた場所でした。この地を知り、初めて訪れました。 駒札が立っています。延仁寺荼毘所の所在地は永らく不明で、いくつかの候補地があったようです。「湛然の『延仁寺旧地考』などの考証によって、通称、火屋谷の地にあたるとされ、明治16年(1883)に大谷派本願寺門主厳如が、この地を買得し、標石、石柵などを整えて延仁寺に付した」(資料6)といいます。西光寺は東本願寺第21代厳如上人によって、このとき(1883年)延仁寺と改称されたのです。(資料6,駒札) 基壇の石段を上がり、手前の石柵越しに拝見すると荼毘所として決定された場所を六角形の石柵で囲い、周囲が礼拝所になっているようです。 六角形の石柵の内側に親鸞聖人立像が安置されています。 正面の石柵の扉は閉じられています。ただ、この外周部分の東辺には細い通路がありましたので、北東側からこの荼毘所の全景を眺めることができました。正面の石柵前に戻ります。 一対の石灯籠の間に、この銘文碑が建立されています。「ここで聖人親鸞の遺体を焼いたと伝える」から始まる文が記されています。そして、向かって右側、六角形の石柵の外側に「見真大師御荼毘所」と刻された石碑が建立されています。 正面に立つ石灯籠の形はあまり見かけないものでした。 振り向くと、南端側に休憩所が設けられています。 北側には斜面を階段状に開削して、墓石が並んでいます。墓地域の最上部にあたるようです。その手前に、松前屋観音と基壇に刻された観音菩薩立像が奉納されています。基壇下には、上掲画像に見えるように、3つの石塔が並んでいます。中央には供花石柱の正面に「延仁寺」と刻されていて、五輪塔が安置され、左側の石塔には「倶會一處」と刻されています。右側は墓石の形で「捨名住寿」と記されています。この荼毘所を参拝して、延仁寺を後にしました。しばらくは醍醐道を下ることに。 途中で振り返り撮ったのがこれです。この道を上ってくると、こんな景色がみえます。下の分かれ道のところは左側を上っていくことになります。 東大路通に出る手前、北側にあるのがこの「今熊野宝蔵公園」です。そこに冒頭の案内地図板が設置されています。「東山区醍醐道東大路東入」と記されています。もう一つの荼毘所は、以前に一度訪れたことがあります。まずは東大路通を北上し、五条通との交差点まで移動します。東大路通の東側にあるのが「大谷本廟」(西本願寺)です。大谷本廟境内地の北西角は境内地と五条坂とが分岐する地点です。大谷本廟の境内地北側沿いの道路を東に入って行くと、墓地域に向かいます。 分岐点から少し東に入ると、まず「実報寺」の入口参道が北側にあります。そこにこの駒札「鳥辺野(とりべの)」が立っています。冒頭の説明文を転記しましょう。「鳥辺野は、東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心にして西方に広がる山麓一帯を言う。北は清水寺の南、当山(実報寺)を含む辺りから、南は今熊野観音寺の北、一条天皇皇后定子陵のある鳥辺野陵に至る地域を総称している」つまり、鳥辺野と称された地域は広大です。具体的かつ特定できる記述で荼毘所が記された記録が残っていないかぎり、荼毘所にいくつかの候補地があっても不思議ではありません。延仁寺が中世に廃絶することなく存続していればそういうことはなかったかも知れませんが・・・・。余談ですが、豊臣秀吉が京都の都市改造をして、五条通を付け替えるまでは、現在の松原通が五条通でした。この松原通を東に進んできて、東大路通を横切り、東に向かうとここから「清水坂」と呼ばれるようになり、清水寺に至ります。東大路通から松原通へ少し西に入ったところに南面する山門があります。「六道珍皇寺」です。六道珍皇寺の山門前を南に下る道がありますが、T字路になったこの辻が「六道の辻」と称され、かつては葬送地の鳥辺野への入口とされていたのです。駒札の説明と合致してきます。大谷本廟の北辺の道を更に東に向かうと、大谷本廟の北門に近いところですが、北側に「北谷墓地」の入口があります。 入口の門柱、右側を御覧ください。「御荼毘所参道」と刻されています。その右に説明板が掲示されています。現在はこの北谷墓地の北側には上記実報寺の墓地域が隣接していて、その墓地域を横切り参道が続いています。 指定参道の各所にこんな標識が設置されています。これが最後の標識です。墓地域を抜けると、谷間への階段を下っていくことになります。 谷間を下って行くと、谷底部分に覆屋が見えます。この覆屋の中に、 「親鸞聖人奉火葬之古蹟」と刻された石標が建立されています。予備知識なしに、周辺の探訪途中に偶然、上掲門柱と説明板を目に止めて、参拝したのがかなり以前で、初めてのことでした。その時のことが印象的な記憶として残っています。それまで鳥辺野にこんな深い谷間がすぐ近くに存在したこと自体知りませんでした。今は柵が設けられ、境界が閉ざされています。民家も建て込んでいて北側の地形などは分かりませんが、市中から鳥辺野に遺体を運んできたとき北側に西に通じる道があれば、この谷間は立地として火葬地らしい環境だな・・・と感じました。そんな雰囲気を漂わせる空間です。広い鳥辺野には、鳥辺山西麓にいくつも谷筋があるでしょうから、西麓の中腹から、市内に近い谷間の底地までの間に火葬地の候補がいくつもあって不思議ではありません。この2つの荼毘所のいずれであっても、その地を参拝し、この鳥辺野で火葬に付された親鸞聖人の人生と宗教思想、阿弥陀仏信仰に思いを馳せることに意味があるのでしょう。さらに宗教とは・・・・に思いが広がる契機の場所になることに意義があるのかもしれません。両荼毘所址、訪れる人のないひととき、一人静かに参拝・拝見することができました。 かなり急な階段を再び上り、観光客で溢れる五条坂近辺の雑踏の中に・・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p862) 『日本史大事典』3 平凡社 p14943) 『朝日 日本歴史人物事典』 朝日新聞社編 p8654) 『日本仏教史辞典』 今泉淑夫編 吉川弘文館 p5625) 本願寺聖人親鸞伝絵下 親鸞伝叢書 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 第六段 29コマ/369コマ 6) 『京都市の地名 日本歴史地名大系』 平凡社 補遺慕帰絵 :「コトバンク」慕帰絵 :「龍谷大学人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 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