観照&探訪 奈良散策 -2 興福寺中金堂と諸堂の眺め
この日のもう一つの目的は、一般公開が始まった「中金堂」の拝観でした。左が拝観券で、右がいただいたリーフレットです。(資料1) 和銅3年(710)の平城遷都とともに創建された当時の様式で復元され、先日再建落慶の諸行事を終えました。「中金堂」は南面しています。拝観受付所は東側にありますので、廻廊基壇の内側には東南側から入ることになります。新聞報道によりますと、中金堂は戦乱や火災で7度焼失しているそうです。江戸時代の1717年に焼失した後は仮堂でしのいできたのです。その仮堂も老朽化が進み、平成12年(2000)には解体されました。そして301年ぶりにこの再建落慶となりました。(資料1,2) 平成最後の年にさらに大きな一歩が踏み出されたことになります。興福寺では「≪天平の文化空間の再構成≫を合言葉に、境内整備事業を進めて」(資料1)いるとのことです。木組構造が美しい。まずは中金堂の外観から拝見です。 中金堂境内地の芝が育てくると芝の緑と中金堂の朱のコントラストが映えることでしょう。この朱色はベンガラ(酸化鉄)が使われているそうです。一般的に神社などで用いられている水銀朱より落ち着いた雰囲気を醸し出しています。 中金堂は単層裳階付きの寄棟造です。東西方向の桁行9間(37m)、裳階屋根を支える柱は10本。南北方向の梁行6間(23m)、側面は角の柱を数えて7本です。中金堂の高さは21mだそうです。 裳階屋根の上部には高欄が巡らされています。 大屋根の棟の両端に据えられた鴟尾が輝いています。 曇天だったのが残念ですが、蒼穹ならば建物の色彩とのコントラストがすばらしいことでしょう。この中金堂は藤原不比等が興福寺を建立するにあたり、最初の堂宇として建立したといいます。 少し、正面の参道を中金堂に近づき眺めます。木組みの均斉美が楽しめます。 尾垂木の先端正面には金色の装飾金具が取り付けてあります。垂木の先端正面も同様です。 創建当時から人々は正面に佇み、こんな風に堂内を眺め、堂内に安置された御仏を拝したのではないでしょうか。金堂は御仏の住まいとして、境内あるいは中金堂の廻廊から拝するだけだったのではと、想像します。 建物の外、少し離れたところからズームアップで撮ったものです。安置された諸仏像の中心に祀られている「釈迦如来坐像」です。創建当初は藤原鎌足ゆかりの釈迦如来が祀られていたといいます。現在のこの釈迦如来は5代目にあたる像だそうです。桧材の寄木造で彫眼されていて、江戸時代の文化8年(1811)に赤尾右京作だとか。光背は二重円光の透かし彫りで古色仕上げにされ、釈迦如来は宣字形(せんのじがた)の裳懸座に結跏趺坐されている姿です。(資料1)仮堂期に安置されていたこの本尊は、文化財指定を受けていないために、このように修復することができたそうです。「修復には仏師の矢野健一郎さん(69)が、1955年の金閣寺の再建で金箔を押した箔押師(はくおしし)の柳生健智さん(77)の協力を得て、3年がかりで取り組んだ」(資料2)成果だとか。最も純度が高く、暑さは約1マイクロメートルという薄さのものが使われいるので、「下地の漆がにじみ出てやや赤みを帯び、照りの弱い落ち着いた光沢」(資料2)を生み出しているといいます。 風鐸も金色。風が吹くとどんな音を響かせるのでしょうか・・・・・。それでは、列に並んで中金堂内に正面西側から入ります。堂内には撮影禁止の掲示が出ています。以降では、当日頂いたリーフレットを一部引用しご紹介します。 広目天 多聞天 藥上菩薩 釈迦如来 薬王菩薩 大黒天 吉祥天 増長天 持国天堂内では諸尊がこのように配置されています。堂内には石造の須弥壇があり、中央の釈迦如来の左右には藥上菩薩と薬王菩薩が脇侍として立っておられ、壇の四隅には四天王が位置します。藥上菩薩の南西前に大黒天、薬王菩薩の南東前に吉祥天の安置された厨子が置かれています。厨子の扉は閉ざされていました。 薬王・藥上菩薩立像と四天王立像をリーフレットから引用します。尚、リーフレトには厨子の扉が開いた形で彩色が鮮やかに保たれている木造吉祥天椅像の写真と木造大黒天立像の写真も掲載されています。中金堂に安置されている大黒天立像は、私たちが大黒天から普通にイメージする姿とは異なります。「元々は大自在天の化身として、怒りの顔をした厨房の守護神でした」(資料1)とのことで、こちらの姿の像を拝見できます。上掲引用の諸尊からみれば、像高93.8cmの比較的小振りな立像です。 薬上菩薩に近く、その前方にある堂内の一柱は、「法相柱(ほっそうちゅう)」と称され、柱の表面にぐるりとさまざまな姿の僧像が見えます。残念ながら全てを眺めることはできませんが・・・・・。法相宗の14祖師を岩絵具で描いた祖師画が、柱に貼り上げられたのだそうです。その全体は高さ約6.8m、周囲約2.45mという大きさです。それは「教義の系譜・法灯を示し」、「礼拝の対象」でもあるのです。(資料1)中金堂内を西から東へと歩みつつ、南面する諸像を拝観して、東側から堂外に出ました。 中金堂の外廊から眺めた五重塔と東金堂です。 東側の外廊です。 中金堂の東側面と北側に位置する「仮講堂」。この右手前の空間にかつては「経蔵」が存在したそうです。 中金堂の東南側から眺めた西側の景色。南円堂の屋根が遠望できます。 堂外から最後に垣間見た釈迦如来像と持国天像です。 曇天の空に、夕刻が迫ってきました。左の南円堂と右の再建落慶成った中金堂の間、丁度樹木がシルエットのようにみえるあたりに、かつては「西金堂」が建っていたのでしょう。 南円堂をズームアップしてみました。 中金堂の境内から真東に眺めた「東金堂」です。そして、中金堂の廻廊部に設置された木柵の出入口から退出しました。 「五重塔」の周辺には、まだ沢山の観光客が集っています。基壇部分を入れずに撮らざるを得ません。 東金堂と五重塔を眺めてから、南円堂の前を通り、辿ってきた道をJR奈良駅に戻ることにしました。 南円堂傍からの石段を下る途中で、最後に「三重塔」に立ち寄りました。三重塔のところから、南円堂の背後を北に抜ける上りの坂道があります。坂道と樹木の間に岩が見えます。「宝蔵院胤栄守り本尊 摩利支天石」と刻された石標が傍にあります。奈良宝蔵院流槍術保存会の銘が左側に刻されています。宝蔵院は興福寺の子院で、胤栄は宝蔵院の院主でした。「生来武芸を好み,上泉信綱に剣を,大膳大夫盛忠に槍を,また香取飯篠系の新当流を大西木春見に学び,十文字鎌槍を工夫創始した」(朝日日本歴史人物事典より)人です。宝蔵院流は江戸後期には槍術最大の流派になったとか。(資料3)これで、この日の奈良散策が終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 「奈良興福寺中金堂」 拝観時に入手のリーフレット2) 「興福寺中金堂 技と渋み」 朝日新聞(夕刊) 2018年9月26日(水)の記事3) 宝蔵院胤栄 :「コトバンク」補遺興福寺の「中金堂」301年ぶり再建 落慶法要に3千人 :「朝日新聞」興福寺中金堂で落慶法要 300年ぶりに再建 :「日本経済新聞」奈良・興福寺中金堂で落慶法要 300年ぶり再建 :「KYODO」興福寺中金堂で落慶法要 300年ぶり再建、奈良 :YouTube【動画あり】興福寺中金堂で一般拝観始まる 奈良、300年ぶり再建 :「産経新聞」釈迦三尊 :ウィキペディア薬王菩薩 :ウィキペディア藥上菩薩 :ウィキペディア宝蔵院流槍術 ホームページ 宝蔵院跡宝蔵院流槍術 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良散策 -1 正倉院展と東大寺へ