探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -4 九所明神・経蔵・金堂・鐘楼・御影堂・観音堂ほか
「九所明神」(重文)を南東側から眺めた景色です。五重塔の北東隅に位置します。仁和寺境内でみれば鬼門の位置に置かれた明神社で、仁和寺の鎮守神です。三間社、流造り、檜皮葺きの社殿が三殿並立しています。(資料1,2) 板塀(瑞垣)の隙間からの眺め 傍にこの案内板が設置されています。この案内板の右より下の説明文を転記します。「仁和寺の初代別当、幽仙が勧請した伽藍鎮守で、今の建物は寛永の伽藍再興に伴い建立された。この時の指図集『本寺堂社図』によれば、中殿に八幡三所、東側の左殿には中央から賀茂下上・日吉・牛頭(ごず、祇園)・稲荷(以上左方五所)、西側の右殿には同じく松尾・平野・小日吉・木野嶋(以上右方四所)、計9座の神々を祀っている。」 「中殿」です。瑞垣の門があるので、扉の菱格子から正面に眺めることが出来ます。社殿全体が朱塗りです。木鼻は象が掘られ、頭貫には瑞鳥が描かれ、蟇股にも鳥が丸彫りされています。極彩色で彩られていて鮮やかです。詳細までは見えませんが、ここに時代的特徴が表れているそうです。 三殿を囲む瑞垣の手前に、この石燈籠が三殿のそれぞれの中央前に置かれています。なぜこの仁和寺に「織部形灯籠」が使われているのか、私は不可思議な印象を持ちました。私は未確認なのですが、これら石燈籠3基のうち2基には「寛永21年(1644)の銘が記されている」そうです。(資料1,2) 九所明神の前、つまり南側に位置する「拝殿」 九所明神社殿の南東側、境内地の東端寄りに、末社が祀られています。祭神名不詳。九所明神社殿の北西方向に進みます。 そこには「経蔵」(重文)があります。お堂は南面する形で建てられています。外観は方三間、単層で宝形造り、本瓦葺きで、禅宗様の和様建築です。柱の上下はやや細めで、肩を丸めた形に加工されています。粽(ちまき)と称されます。その柱が礎盤の上に立っています。連子を緑色に彩色された花頭窓、正面は藁座付の桟唐戸です。(資料1,2)藁座について、「桟唐戸の吊元軸を差し込む孔を有する座。これに四葉金具、繰形金具を打って補強と装飾を兼ねしめる」(資料3)という説明があります。 西に歩むと、「金堂」(国宝)です。二王門、中門、金堂が南北方向一直線上に並びます。桁行(正面)7間、梁間(側面)5間で、単層、入母屋造、本瓦葺きです。慶長18年(1613)造営の御所紫宸殿を賜って、寛永19年(1642)に移築されたと言います。元は檜皮葺きだった屋根は瓦葺きに替えられています。本尊は江戸時代に造立された阿弥陀三尊像です。その左右に、光孝天皇・徳川家光像を安置するそうです。(資料1,3) 正面中央に1間の向拝が付いていて、正面に蔀戸が取り付けてあるのは旧紫宸殿の当時のままだそうです。 向拝の屋根の両端先に、仙人像が置かれています。三千年に一度浮かんでくる亀を5回も見たという仙人と言います。少し焦点がずれてしまいましたが、1枚しか撮っていないので、ご寛恕ください。(観音堂初公開チラシの裏面より)長寿繁栄のお守りというところでしょうか。 降り棟先端の鬼瓦 尾垂木ほか各部材の先端にに取り付けられた飾り金具には、菊花紋がレリーフされています。 蟇股には、鶴と木が透かし彫りになっています。 半蔀の枠部分の飾り金具にも菊花文様が線彫りされています。 金堂の西側に「鐘楼」(重文)が位置します。鐘楼は下層部に黒く塗られた羽目板をまわす袴腰形式です。寛永再建期に建立されたものです。(資料1) 鐘楼の傍を北に進むと、「水掛不動尊」のお堂があります。拝所の柱の木札には、「近畿三十六不動尊霊場第十四番札所」と記されています。お堂の正面に「大聖不動明王」と記された扁額が掲げてあります。 詠歌 わけのぼる花の嵐の梢よりおむろの山に月ぞかがやく 堂内には、大きな岩を台座にして石造不動明王像が安置されています。この台座は、宇多天皇に登用された菅原道真が、退位後の宇多法皇に太宰府への左遷の赦免を願うために訪れたところ、法皇は勤行中であったとかで、道真はこの岩に座って勤行の終わるのを待ったと伝わるそうです。「菅公腰掛石」と言われています。(資料1,3,上記のチラシ)お堂の傍にそのことを記す石標が立っています。 「一願成就の不動明王。裏山からの湧水を御不動様に掛けて心の底から願えば、あなたの望みを一つだけ叶えてくれる」(上記のチラシより)と言います。「仁和寺の7つのパワースポット」の一つになっています。 これがお寺で入手した観音堂落慶初公開のPRチラシ裏面です。番号5が水掛不動尊です。境内北西角に位置する御影堂の東側に位置します。この不動石仏にはおもしろい伝承があります。「京都市内で大洪水があったとき、一条堀川の戻橋の下に流れついたが、『仁和寺へ帰りたい』という夢告により、戻橋付近の人々がこの岩上に祀った」(資料3)という伝えです。 「御影堂(みえいどう)」金堂の西、仁和寺の境内の北西角に築地塀に囲まれた境内になっています。御影堂は南面していて、正面の門と、東側の水掛不動尊の方に出られる東門があります。一に「祖師堂」とも呼ばれるようです。方五間、単層、宝形造り、檜皮葺きのお堂です。 「天正年間造営の旧清涼殿の古材を使用し、寛永18年(1641)に建立」(資料1)されたそうです。そのため、正面は全面的に蔀戸(半蔀)が使われています。向拝のある正面部分は、上部の半蔀が開かれて釣り上げられているのが見えます。堂内中央に真言宗の祖弘法大師の真影、両脇に宇多法皇と長和親王(大御室)が祀られています。長和親王は三条天皇の第四御子です。仁和寺の北院に入室し、大師九世となった性信准三后のことで、大御室と称されたようです。(資料4,5) 向拝のところの蟇股です。丸彫りされているのは麒麟でしょうか。 蔀戸の飾り金具に菊花文様が使われているところに、金堂同様、御所由来の名残が見られます。長押の金具にも同様の名残が見えるそうです。(資料1) 御影堂中門 石燈籠の形が目に止まりました。あまり見かけない形式のように思います。 御影堂の南に「大黒堂」があり、その北側に「西門」が見えています。かつては、この西門を出た西隣りで南に「北院」があったそうです。既にご紹介した「霊明殿」に祀られている秘仏の薬師如来坐像の元の像が北院にあったということに触れています。大黒堂の前の参道を南に下ります。 「観音堂」(重文)です。観音堂は天暦5年(951)に創建されましたが、応仁の乱で焼失。このお堂は寛永年間に再建されたものです。和様を主として禅宗様が加味されていると言います。最近まで修復整備工事が行われていたようで、5月9日時点では工事後の後処理が行われているようでした。 初回の「二王門」のご紹介の折りに触れていますが、探訪したのは5月15日から「観音堂落慶」の初公開を行う予定に入る直前でした。そのため観音堂の外観だけを拝見することができました。方五間、単層、入母屋造り、本瓦葺で、前後に向拝が付いているというお堂です。正面の柱間はご覧の通り、すべて板扉となっています。(資料2) 側面を撮ったこの写真の木組で、二手先組物であることがよくわかると思います。建物としては近世初期の特徴を示していると言います。(資料1)上掲PRチラシからうかがえますが、堂内は内陣外陣に区分された典型的な密教系仏堂だそうです。本尊は千手観音菩薩像。脇侍二十八部衆、風神・雷神像などが安置されています。観音堂外観の細部のいくつかをご紹介しておきましょう。 正面の向拝の蟇股には鶴にのる人物が丸彫りされています。残念なことに、鶴と人物の頭部が欠損となっています。 向拝を西側面から眺めた景色。屋根の端の先端部には亀像の装飾瓦が置かれています。魔除け的な役割を担っているのでしょうね。垂木は飛檐垂木と地垂木の二軒であることがよくわかります。破風板の下で、桁の先端を隠す位置に脇懸魚が見えます。猪の目懸魚様の形に思えます。 向拝の屋根の内側に見える手挟には、彫りの深い植物文様が見えます。 入母屋造りの屋根の妻側の鬼瓦です。鬼瓦の上の鳥衾と軒丸瓦の両方に、蓮華座に種字が載ったレリーフが見えます。 観音堂の南に、名勝御室桜の苑が広がっています。御室桜越しに眺めた観音堂です。 大きな手水が目に止まりました。長方形の水盤の側面に「大内山」と刻されています。大内山は仁和寺の北側にある山で、その麓に仁和寺があり、「大内山」は山号でもあります。中門を再び潜り抜け、浄心の参道に戻り、境内の東側に位置する「霊宝館」に向かいます。 参道の傍に「謡曲『経正』と仁和寺」と題する駒札が設置されています。平経正は平清盛の弟・経盛の息子です。8歳から13歳まで稚児として仁和寺の門跡・覚信法親王に仕え、寵愛された人物。経正は琵琶の名手だったそうです。平家追討の宣旨が出されると、平家一族と共に経正も西へと落ちて行きます。行慶僧都は経正を桂川畔まで見送ります。その翌年寿永3年2月7日、一ノ谷の合戦で平家は大敗し、経正は短い生涯を閉じたそうです。この平経正に題材を得たのがこの謡曲です。作者は不詳のようです。シテは平経正の幽霊、ワキは行慶僧都で、二番目物(修羅能物)になるそうです。(資料6) 「霊宝館」の手前に、この「金剛華菩薩像」のブロンズ像が安置されています。傍の立つ駒札には「花の仏さま」と括弧書きで記されています。”「花は是れ慈悲より生ずる義」と仏典(大日経疏)に説かれるように花は仏さまの本誓であり慈悲と愛と和の象徴であります。仁和寺門跡を家元とする御室流華道の門人の心の拠り所として花の仏さまである金剛華菩薩を祀り草花の生命を供養すると共に華芸の上達を願い流祖宇多法皇壱千五十年遠忌法要の記念事業として昭和五十六年、開眼供養されました。”(駒札転記)「霊宝館」は、校倉造り、鉄筋コンクリート建てす。金剛華菩薩像の背後に、この建物の西側が部分的に写っています。館内には、創建当初の本尊と伝える阿弥陀三尊像(国宝)を始め諸仏像、書画などが展示されています。館内は撮影禁止です。ご紹介できないのが残念です。この後、仁和寺の東門から出て、道路を隔てて東側にある蓮華寺を訪れました。つづく参照資料1) 「京都の古寺を巡る36 ~仁和寺~」2019.5.9 龍谷大学REC (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 レジュメ作成)2) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂3) 『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舎編集部編 綜芸舎4) 『続群書類従 4 下(補任部)』(巻95 仁和寺御室系譜) 「性信准三后 二品。俗名師明。 大師九世。大御室。号長和親王。三条院第四御子。春宮之時之御子也。・・・・ 寬仁二八廿七入室。同廿九出家。十四歳。・・・応徳二九廿七寂。八十一歳。」 5) 『続群書類従 28 下(釈家部)』(巻836 北院御室拾要集)p210 「三條院御子長和親王為彼入室有受職。則是大御室御事也。」6) 『能百番を歩く』 京都新聞社編 杉岡博明・三浦隆夫 京都新聞社 p228-230補遺真言宗御室派 総本山仁和寺 ホームページ 境内のご案内 近畿三十六不動尊霊場会 ホームページ 第14番仁和寺 御室流 OMURO IKEBANA ホームページ演目辞典:経政/経正 :「the能.com」経正 :「銕仙会 ~能と狂言~」金剛流 能「経正」 Noh performance TSUNEMASA :YouTube経政:夢幻の中の管弦講:平家物語(能、謡曲鑑賞) :「壺齋閑話」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -1 御室駅から仁和寺二王門へ探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -2 本坊(御殿 南庭・北庭)ほか へ探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -3 二王門・勅使門・中門・御室桜・五重塔 へ探訪 京都・洛西 御室・仁和寺と周辺細見 -5 蓮華寺・陶工仁清窯址・兼好法師旧跡(長泉寺)・地蔵院・法金剛院 へ