スポット探訪 京都・東山区 四条大橋以南の川端散策
京都の四条大橋東詰で、四条通の南側には南座があります。南座に前進座公演の観劇に出かけた際、開演前に少し川端沿いを散策しました。先日、「七条から三条へ 寺と地蔵尊と町並ウォッチング」という探訪記をご紹介しました。その補足という位置づけにもなります。上掲の探訪記をまとめるにあたって地図を参照していて、改めて鴨川、川端通と琵琶湖疏水の位置関係に気づきました。冷泉通の北側沿いに西に流れてきた琵琶湖疏水は、鴨川のところで南に向きを変えて川端通の西側を南方向に流れます。鴨川と並行する形で流れるのですが、御池通に架かる御池大橋の少し先で、琵琶湖疏水は暗渠化します。御池通の先、三条・四条を経て、鴨川に架かる「団栗橋」に先までは疏水は地下に潜っています。そして、団栗橋の南から、川端通の東側に位置を変えて南に流れる形に変わります。松原通までは琵琶湖疏水が地表面を流れています。そして、疏水沿いの東側に道路が南に並行しているのです。通りに沿って、北から南に宮川筋1丁目~同5丁目が隣り合っています。この通りの一筋東側が、「宮川町通」です。こちらの通りは上記探訪記でご紹介しています。四条大橋から南側の川端を歩く事がなかったので、位置関係などを意識していませんでした。この点を現地確認してみたかったのです。冒頭の景色は南座の建物の西面で、川端通に面しています。南座西側出入口の階段南側に駒札と碑が立っています。「阿国歌舞伎発祥地」記念碑 慶長8年(1603)この辺りの鴨河原で出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露したと言います。歌舞伎発祥350年記念として、昭和28年(1953)11月吉例顔見世興行前に、この記念碑が建立されたそうです。(駒札より)さらに66年の歳月を経て、2020年を迎えていることになりますね。 川端通を挟み、西側には鴨川端に小径が遊歩道として設けてあります。この小径の東側は琵琶湖疏水が暗渠になっていて見えません。まずはこの遊歩道を団栗橋まで南に向かいます。 鴨川の西岸には、北側に「東華菜館」、南側に「ちもと」が見えます。老舗のお店が川端沿いに軒を連ねています。 (資料1)これは『都名所図会』に載る「四条河原夕涼」の模様を西側から眺めた挿絵です。左ページには鴨川の東側と河原の間にだけ橋が架けられています。東側には通りを挟んで、北側に2箇所、南側に1箇所、「芝居」という文字目にとまります。南側は「南座」で、北側に「北座」があった状況を描いています。右ページに目を転じると、一番右に「宮川町」、その斜め左上に「どんくりの辻」と記されています。右ページの右下角に「西石垣」と記されています。その左斜め上に、東側の流れに架けられた橋が描かれています。つまり、当時は四条通には、鴨川の全幅に架かる大橋はなかったことがわかります。四条河原での夕涼のこの風景は、旧暦の6月7日から始まり同18日に終わるという期間限定の一大イベントだったようです。その状況をかなり詳しく説明しています。これは天明6年(1786)に、安永9年刊の再板として出版された『都名所図会』に掲載されていて、安永9年刊の初版には載っていません。(資料1,2)では、四条大橋が架けられたのは何時か? 『花洛名勝図会』に挿絵が載っています。 安政4年(1857)に加茂川(鴨川)御浚が行われ、この時に四条橋が架けられたと記されています。長さ50間巾3間の石柱板橋で、高欄つき石柱が42本とその規模が説明されています。(資料3) 南に歩き始めて、小径の左側に目に止まったのがこの駒札です。 上掲探訪記に「宮川」の名の由来に触れています。この駒札が立てられていることを、今回の散策で初めて知りました。駒札の最後に、「なお、四条大橋から松原橋(旧五条大橋)までの間を、古くから特に『宮川』と呼ぶがこの『宮』とは祇園社(八坂神社)のことを指し、神輿を洗い清めたることに由来するとも伝わる。」と記されています。 四条大橋から小径を200mほど南に歩いた団栗橋のところで、一筋東側の道路の歩道をさらに南に歩みます。そして目に止まったのがこの地蔵尊の小祠です。小祠の前に立ち寄り、格子戸の内部を眺めてみましたがよく見えませんでした。 これは小祠の傍から、地表に現れた琵琶湖疏水を北方向に眺めた景色です。左側が川端通で、右側が疏水端の道路と歩道です。その左つまり東側が宮川町です。 疏水の上に設けられた地蔵尊の小祠を祀る一画で目に止まったのが擬宝珠のついた欄干の柱と石橋に使われていたのかと思われる丸い石柱です。疏水に架けられていた石橋の残欠なのでしょう。擬宝珠の下に「疏水」と刻されています。脇道にそれます。鴨川と琵琶湖疏水の間、かつての鴨川堤上が線路となっていて、京阪電車が地上走行をしていました。上記の場所より更に南に歩めば、松原橋です。その南を地上走行する1975年頃の写真が公開されているのを見つけました。こちらからご覧ください。ページの一番下の囲み記事に掲載されています。(「じつは京阪電車の田邉朔郎にお世話になりました」[京阪電車])もう一つ、「団栗橋」について。江戸中期、宝永6年(1709)の京大絵図にはこの橋が記されているそうです。その名は橋のたもとに大きな団栗の木があったことに由来すると言われています。上掲の挿絵に「どんくりの辻」とあるのは「団栗の辻子(づし、図子)」にあたるようです。辻子は次の通りまで通り抜けられるようにつけられた道をさします。その名称はたぶん団栗橋に近いという位置からつけられたのでしょう。(資料4)京都では、天明8年(1788)正月30日に起きた火災(天明の大火)が歴史上最大の火災と言われています。この団栗辻子の民家からの早朝の出火が原因で、東からの強風の影響で鴨川を越えて西、南北に拡大していき、二昼夜燃え続けたそうです。そこで、「団栗焼け」とも称されるとか。(資料5,6)元に戻ります。 疏水沿いの道路の反対側を見ますと、「宮川町歌舞練場」への入口です。宮川町通側で撮った景色は既にご紹介しています。疏水端の道路から、歌舞練場へのこのアプローチを進み、宮川町通を再び北上して、 上掲の探訪記の最後に掲載したこの地蔵尊のところに至ります。ここで右折して歩道を少し歩めば南座です。半時間程度の散策でしたが、四条に出ても普段歩く事のない所で幾箇所かのタウン・ウォッチングをでき、地図と現場が繋がりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 『都名所図会』(安永9年版) 竹村俊則校注 角川文庫3) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 団栗橋 :「京都通百科事典」5) 天明の大火 都市史 :「フイールド・ミュージアム京都」6) 団栗辻子(どんぐりのづし) :「京都通百科事典」補遺出雲阿国 :ウィキペディア出雲阿国 :「コトバンク」出雲阿国の墓 :「出雲 観光ガイド」古美術をみる眼2 「歌舞伎の祖 出雲の阿国の墓を訪ねる・ 浮世絵の誕生前夜」:「愛知県共済生活協同組合」京阪三条駅が地上にあった頃、鴨川べりの懐かしい風景:「電車好きな元鉄道員のブログ」 四条駅付近の懐かしい風景も掲載されています。北京料理 東華菜館 ホームページ京料理 ちもと ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)