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阪神大震災の時はマンション屋上のタンクが壊れ、電気はついたものの余震もあって、翌日彦根に避難しました。
主人の実家は芦屋市でも被害の大きかった地区で、軽量鉄骨だったので家は大丈夫だったのですが、町内58人も亡くなられ(お隣の奥様も)るほどのところだったので、震災夜はうちで1泊して、翌日義父母と次男(保育園年長)は西宮から電車で彦根へ、私たち夫婦と長男(養護小4)は三島郡島本町の私の両親と兄たち家族の家で1泊して、彦根に入りました。 彦根は義姉家族(小6・小4)がいて一戸建てだったため、1階の客間を私とこどもたち、2階のタンス部屋に義父母が世話になりました。 主人は当時岸和田支店勤務だったので、彦根から通うわけにもいかず大阪の単身寮に入りました。(一部屋に二人) 長男の小児神経医は当時阪大だったので、彦根に避難する前に主人がバイクで紹介状をもらいに行きました。 阪大は千里なのでさほど被害がなかったのは幸いでした。受付から紹介状をもらうまでは「西宮から来た」ということで、どこででも「大丈夫でしたか?」と気遣っていただき、とても短時間で紹介状をいただけたそうです。 彦根では市民病院小児神経外来に3月までお世話になりました。 当時の長男は胃ろうはあったものの、まだ口から刻み食を食べていました。 6歳で胃の逆流手術と胃ろうも付けていて、水分は胃ろうからも取れましたので、特に大きく体調を崩すこともなく過ごしました。 次男は保育園年長だったのと、いつ西宮に帰れるかわからなかったので、ずっと家にいることにしました。 たまに長男をだれかに見てもらって午前中散歩に出ましたが、あの時は雪が多く外にはだれもいなくて、雪の積もった公園を真新しい雪の上を一人走り回っていました。 義姉さん家族も、いっぺんにふた家族が来たので、いろいろ大変だったと思いますが、二人のいとこは次男をとても可愛がってくれました。(そのいとこの次男は今年パパに、長男は結婚します) 西宮は3月にガスが出たので帰ってきました。 主人の両親も少しでも近くが良かったようで、うちのマンションの5、1畳(今は次男の部屋)に5月までいました。 当時養護学校には医療的ケアの人はほとんどいませんでした。 借家全壊の人はいましたが、うちのような持ち家半壊で3月まで避難はほかにはなかったと思います。 養護で亡くなった家族がないのは幸いでしたが、同じ市内でも被害のほとんどなかったお宅もあり、その後いろいろあって、私は教会に導かれました。 こどもの障害の程度でも地震の被害でもいつも人と比べていた私です。 今はそのどれにでも意味があったのかな?と思えるようになりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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