「独立自営」森村市左衛門 花よりも実を結べ
「独立自営」森村市左衛門 明治経営者名著集 ダイヤモンド社近代セラミック産業を築いた「独立自営」の精神第4編 第一 現代思想(その一)花よりも実を結べ更に考えなければならぬ事は、いわゆる旨くやった連中は随分世間には多いようなものだが、これ決して多いのではない。他の堅実なる労作に依って産をなし、富を得た人は、彼等空中楼閣黨の如く、華美に世人の眼に映じないまでの事である。富めりと雖も静かに富み、勝てりと雖も敢えて叫び誇らぬ処から、殊更に世人の目に映じないのである。最後の勝利者は矢張り堅実なる人の手に帰しているのは、古今の常態である。花を咲かせると言うが、花は終局の目的ではない。果実熟して初めて最後の目的が得らるるのだ。花には狂い咲きもあろうが、果実は決して酔狂や誤魔化しては得られぬ。真面目な堅実な労作以外に果実を得る手段はない。狂い咲きを見て果実を忘れてはならぬ。狂い咲きは決して世間の常態でもなければ、果実を得るものでもない。只人目を惹く異例に過ぎないのである。陶板に記された『國利民福』 名古屋駅から大阪方向に出発してすぐ、右手の車窓に「Noritake」の文字が見える。日本陶器(現・(株)ノリタケカンパニーリミテド)発祥の地で、敷地内には煉瓦づくりの創業当時の工場も保存されている。 15年ほど前、この地にドーム球場の構想が生まれたとき、この煉瓦工場の下から日本陶器創立の宣誓文を記した陶板が掘り起こされた。 森村市左衛門の『國利民福』の思想の原点は、幕末・維新に重なる。彼は、天保10年(1839)に江戸・京橋の馬具・袋物商の長男・市太郎として生まれた。六代目の誕生である。各藩御用をつとめる商売は順調だったが、やがて激動の時代を迎えようとしていた。 日米和親条約が結ばれた翌年の安政2年(1855)、江戸をマグニチュード6.9の地震が襲った。死者1万人にのぼる安政大地震である。京橋も焼き尽くされ、森村家は灰盡に帰した。16歳の市太郎は、人夫、露店商で一家を支えて店を再建した。安政6年に横浜が開港されると、市太郎は片道32kmの道のりを往復して、横浜でラシャ、時計などを仕入れて薄利で売った。やがて、大名屋敷から声がかかるようになり、中津藩(大分県)に出入りするうち、福沢諭吉の存在を知った。 万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約に批准する使節団を派遣することになり、米国への贈答品の注文が森村の店に舞い込んだ。使節団が米国で使用する通貨への両替も頼まれたので、市太郎が横浜の両替所で交渉したが、日本の小判(金)とメキシコ銀貨の交換レートは1:2だった。国際レートは1:4だったから外国商人はぼろ儲けである。「これでは日本の金がすべて流出してしまう」と福沢に訴えると、「貿易で取り戻すしかない」という。市太郎はこの言葉を胸に刻んで生きることになる。 文久2年(1862)、幕府は皇女和宮の降嫁を得て公武合体に延命を託すが、市太郎は「時勢は追々変転せんとし、徳川の勢力しだいに衰う」と記している。この頃、森村商店は騎兵用の鞍を製作し、土佐藩士板垣退助の勧めもあって、各藩に納めている。武器や軍服の製造も始めた。 森村組、ニューヨークに進出 時代は明治に移った。市太郎は塩問屋の談合に義憤を感じて製塩業を始めた。養蚕、銅山、漁業にも手を広げたが、ことごとく失敗した。この苦境を救ったのは本業の馬具である。木戸孝允、山県有朋に評価され陸軍に鞍や軍服を納めることができた。しかし、役人に賄賂を要求されたことに激怒して軍御用達を辞してしまった。市太郎は銀座にテーラーを開き、かねて計画していた外国貿易の準備を始めた。 明治9年(1876)に、慶應義塾に学んだ弟・豊と森村組を創立した。そして、豊は、福沢諭吉の紹介により、輸入商の佐藤百太郎(順天堂の創設者の長男)の世話で、後に生糸貿易で名をなす新井領一郎、丸善店員の鈴木東一、三井組の伊達忠七とともにニューヨークに旅立った。市太郎37歳、豊22歳のことであった。 同年9月、豊は佐藤、伊達と共同で「日之出商会」を設立し、市太郎が日本で蒔絵、印籠などを調達して米国に送った。横浜通いで鍛えた市太郎の眼は確かで、名古屋で3円で仕入れた花生が10倍で売れた。2年後、明治11年、豊は単独で六番街238番館に「森村ブラザーズ」を設立した。市太郎も日本橋で絵草紙屋を営む義弟の大倉孫兵衛を引き入れて、北海道から京都、大阪まで足を延ばして精力的に仕入れを行った。 もちろん、政府に保護された商売敵も多く、市太郎は福沢に弱音を吐いて「へこたれるな」と励まされることもあった。ともかく、森村組は「独立自営」を貫き、信用第一で顧客を増やしていった。ある時、現地の店員が間違って商品を倍の値段で売ってしまった。豊は、「相手は納得して買ったのだから仕方がない」という店員をたしなめ、金を返させた。この一件で店員も客も「日本人は信用できる」と感激したという。 業容の拡大とともに、森村組の将来を担う社員が次々と入社してきた。慶應義塾を出た村井保固は、あえて弱小の森村組に入社した。明治12年にニューヨークに渡り、避暑地への出張店舗、卸業への転換などを献策した。広瀬実栄は土佐藩の重臣の子だが、板垣とともに新政府を辞した後に市太郎に請われて入社し、後に森村銀行の初代頭取になる。市太郎の長男の明六も慶應義塾を出てニューヨークに渡った。 卸事業に転じた森村組は、明治26年には輸出高が25万円(現在の25億円ほど)に達した。主力は陶磁器で、瀬戸、京などから生地を購入し、専属の絵付工場で絵付けをして出荷した。手描きの“金盛絵付け”の花瓶などが評判を呼び、瀬戸の窯元に依頼してコーヒーカップの製造も始めた。やがて、生地、絵付けともに名古屋に集約し、欧州にならって分業方式の生産も導入した。明治27年、市太郎は六代目市左衛門を襲名した。 “純白”への20年の挑戦 明治27年から製造を始めた洋食器は苦戦だった。純白が求められるのに日本の磁器は灰色の「でもしろ」(これでも白)だった。光沢もなく熱にも弱かった。そこで、東京工業学校(現・東京工業大学)から飛鳥井孝太郎が入社し、名古屋支店で研究を開始した。この事業は大倉孫兵衛の資金で行われたが、失敗の連続で、やむなく飛鳥井は欧州に渡ったが、どの工場でも粘土の混合や焼成温度は秘中の秘だから大して成果はあがらなかった。 そんなおり、市左衛門に不幸が重なった。明治30年に明六が死亡した。豊も同年に胃がんで死去したのだ。失意の底にある市左衛門に対して、大倉孫兵衛と長男の和親の方も辛かった。明治35年、金盛絵付け技術と交換に欧州の工場見学が認められ、ドイツ粘土研究所の分析で天草陶石が最適であることもわかった。ようやく、明治36年(1903)に純白の生地が完成した。 明治37年、欧州から製陶機械や石炭窯を導入し、名古屋駅に近い鷹羽村則武に「日本陶器合名会社」が創立された。そして、煉瓦づくりの工場の建設にあたって、冒頭にある出資者の陶板が市左衛門の手で埋められた。 日本陶器は森村組から分離され、大倉和親が代表者になった。和親は工場内に家を建てて陣頭指揮をしたが、洋食器の歩留まりはあがらず、損失は増える一方だった。ようやく明治末年になって、思うような製品ができるようになり、創業の地にちなんだ「ノリタケ」ブランドは、輸出だけでなく、皇室、外務省、海軍、帝国ホテル、精養軒に採用され、三越でも扱われて何とか黒字化した。 ただ、輸出では八寸皿のディナープレートが求められたが、八寸の大皿では中央が垂れてしまうので、どうしても市左衛門が出荷を承知しない。そこで村井が伊勢本一郎を日本陶器に送りこんだ。伊勢は、東京工業学校で飛鳥井の後輩だった江副孫右衛門を開発責任者に据えた。このため、飛鳥井は退社を余儀なくされるが、市左衛門の励ましに発奮して、名古屋製陶(現・鳴海製陶(株))に移って後にノリタケのライバルとなる。 一方、江副は欧州に渡って原料の改良につとめ、さらにこれまで中央が垂れないように中央の粘土を薄くしていたのを、逆に中央を厚くする逆転の発想で垂れを抑えることに成功した。すでに、大正3年(1914)と元号も変わっており、純白を志して20年後のことだった。 同年、第一次世界大戦が勃発し、欧州からの輸入が途絶した米国からディナーセットの注文が殺到、大正5年に1万組、同10年10万組と輸出が激増し、やがて、欧州、アジアにも「ノリタケ」が広がっていった。 セラミック新事業が次々と開花 大倉和親は私費で研究室をつくり、苦境の中でも新製品の開発を怠らなかった。成型技術から人造石膏が生まれ、業界トップになった。大衆品向けの絵付け転写印刷、金使用の水金なども開発した。 八寸皿完成の大正3年には、国産初の洋風衛生陶器を製品化。大正6年に北九州小倉に「東洋陶器」(現・東陶機器(株))を設立した。衛生陶器は関東大地震以後、東京で需要が拡大し、シェア90%にまで達した。 明治38年(1905)には、芝浦製作所(現・(株)東芝)の要請で、15,000ボルト送電用碍子を製造。碍子は水力発電の普及とともに需要が拡大し、一時、日本陶器の収益の4割を稼いだ。そして、大正8年に市左衛門の次男・開作、和親の出資で「日本碍子」(現・日本碍子(株))を設立した。 昭和恐慌下の昭和5年(1930)には、自動車・航空機の点火プラグを開発、昭和11年に江副孫右衛門を社長に「日本特殊陶業(株)」を設立し、森村豊の遺児・勇が取締役に就いた。 さらに、大倉和親は常滑の伊奈製陶所(現・(株)イナックス)を資金援助して、近代陶管、タイルの生産を開始する。これら5社がそれぞれの業界で今日もトップ企業を維持しているのは、まさに驚異である。 森村組も順調だった。陶器だけでなく、ミキモトの真珠、工芸品に手を広げて黒字を続けていた。大正6年(1917)には、森村開作が社長に就任したが、第一次世界大戦後の不況と昭和恐慌により、森村組の業務は日本陶器に合流し、明治30年創立の森村銀行も三菱銀行に吸収された。ニューヨークの「森村ブラザーズ」も、昭和16年(1941)の日米開戦で資産を凍結されて命脈を絶たれた。戦後は、森村商事(株)と改名し、陶器材料の輸入販売や不動産事業などを行っている。 森村市左衛門は、大正8年(1919)に81歳で歿した。『國利民福』を志した市左衛門の業績は多岐にわたる。明治15年(1882)に日銀監事に任命され、松方内閣の時に金本位制を主張して勇名をはせた。明治21年には日本商工会議所創設に参加した。富士製紙の設立や富士紡績の再建でも無償で力を尽くした。富士紡が、せめて工場前の橋に「森村橋」と命名させてくれと頼んだというエピソードが伝わっている。 教育面では、日本陶器に夜学を設けて従業員教育を行い、豊、明六を記念する「森村豊明会」のもと、日本女子大や三輪田学園、高千穂学園への援助、森村学園の創立など女性教育を進め、慶應、早稲田、東京工業、北里研究所にも寄付を行った。しかし、桂太郎総理の要請による済生会への寄付は断っているのが面目躍如である。(文中、社名は略称、敬称略) 取材・大喜三郎 撮影・古城 渡 取材協力 株式会社ノリタケカンパニーリミテド 日本碍子株式会社 日本特殊陶業株式会社 東陶機器株式会社 株式会社イナックス 参考 『森村市左衛門の無欲の生涯』砂川幸雄(草思社)