一條神社
(一條神社や一條天皇について調べている時、この曲がずっと私の頭の中を駆け巡っていたので今回もその流れでこの曲を再アップした)その後、一條天皇について検索していると、清少納言や紫式部の頃の天皇ということ、一條天皇自身も管弦・・特に横笛が得意であられたという事で今回貼っているユーチューブの「トリオ・デル・ガルダ」の曲が意図しないながらもピッタリ一致していて感激し、近隣の山間部にあるこの陽成町がその時代との窓口ということになり、すべてが身近に感じられてきた。これが神社に立てられていた掲示板で、ちゃんと「六十六代一條天皇」の長保の頃に使いが派遣されたと記載されている。そして一昨日、また鹿児島で時間があったので県立図書館で時間を潰したのだが・・。陽成町絡みの史料と薩摩川内市史を確認してみた。ところが、一條神社についての由来の箇所で「六十六代一條天皇」の文字がまったく出てこない。その亡くなった役人の氏が一條だったらしいのと、病死と自殺の説、そして自殺説の中で川内での逗留先であったらしい権執印家の娘との相思相愛関係、そして時代は不詳というのがもっぱら。一條家の中でそれらしい方の見当をつけると西暦で1,100年代だとか。相思相愛で何故自殺しなければならなかったのかの理由もまったく記載なし。どちらにしても、一昨日に見た資料からは「一條天皇」の文字は見当たらず・・。清少納言に紫式部そして一條天皇の横笛と陽成町との時代を超えたロマンはどうなるのか?神社に立ててある掲示板の内容は何なのか?それこそ「諸説あります」ということか? それならそれで掲示板の最後に「諸説あります」と小さな文字ででも書いて欲しかった・・。という訳で近々、薩摩川内市の図書館を訪ねてみようと思っている。そして「一條殿」についての旅はまだ続く!(それから一條峠で気味悪かった原因が判明?敗走する薩軍と官軍との白兵戦が行われていて近隣には無縁墓が至るところに残されていた)