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カテゴリ:政治
裁判員制度の是非がよく議論になっており、裁判員に選ばれても拒否したい人が多いという。しかし私はこの制度に基本的に賛成。もし裁判員に選ばれたら何としても参加したいと思う。
もし国民の皆が裁判員を辞退するようなことになれば、「我々の思惑は無視していいから、司法で適当にやって下さい。」と国民自らが裁判を司法に丸投げしたことになる。裁判所の判断がいかに理不尽なものであっても文句を言わないと宣言するようなものである。 本当にみんなそれでいいのだろうか? 一般人の目線が司法の判断に関われる唯一のチャンスが巡ってきたのに、そのチャンスを活かさない手はないだろう。 しかし・・・・・ 足利事件の報道を耳にして、気持ちが変わってしまった。 自白偏重のあまり供述の不自然さには目をつむり、誤ったDNA鑑定を証拠として有罪とされ、その後鑑定の誤りを正す機会をことごとく司法が葬り去って長年に渡り無実の人を刑に服させていた足利事件。 もし仮にこの事件の裁判に裁判員制度が適用されていたらどうなっていただろうか? 警察や検察による「こいつが犯人に決まっている」という結論ありきで練り上げられた筋書きを、しろうとの裁判員には見破れまい。おそらく裁判員制度の下でも同じく有罪となっていただろう。もし自分の判断により冤罪を作り出すとしたら・・・・そう考えると裁判員制度に参加する気持ちは急速に萎える。 ましてや、同じ方法のDNA鑑定で有罪となりすでに死刑が執行されている飯塚事件など、考えただけでも恐ろしい。 裁判では警察や検察が偏りのない信頼に足る情報に基づいて起訴することが前提である。その前提がこうも無惨に崩れているのでは裁判員制度導入など考える以前の問題ではないか。今のまま導入すれば、一般人を冤罪作りの共謀者に仕立て上げようとする制度になってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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