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テンションが上がらないときはブログの更新が滞る。
この一ヶ月というもの、ただ忙しさにまかせて仕事をこなしたということ以外何も言うことは無い。 昨日2ヶ月ぶりにある知人(46才)にあった。なぜか五分刈り頭になっているので、「なんやすっきりしたんやなあ」というと、「先月くも膜下出血で倒れて、開頭手術を受けたんや。3日間意識無かった。」ということで驚いた。 幸い麻痺も残らず仕事に復帰しているらしいが、要するに我々はこういう年回りになったということらしい。 慢性胃炎を抱えて酒を飲む量を控えているぐらいかわいらしいものである。 3年前に脳卒中で突然倒れた親友のT君は今もリハビリ中だ。C君の訃報に驚き、哀しんでいた。 毎年厚労省が発表している死亡統計を見ると、人間45才を超えたあたりから急に死亡率が上昇する。数字とは正直なものだと思う。 最近生命保険を一つやめた。50才を境に急激に掛け金が高くなるのである。保険会社はわれわれがすでに死にやすい世代であることをよく知っている。 自分がいつ病に倒れるかはわからない。神の投げる気まぐれなナイフが命中したら、それで終わりである。いつも自分の耳元をかすめて近くの人間にあたっているような気がするが、次は自分の番かもしれない。 死が身近なものになると、じゃあ生きている意味は何かと問う気持ちが生まれてくる。そんなやっかいなことを考えるのは人間だけだろうが。 C君の影響もあってここ数年聖書を読んでいる。日本では聖書ほど有名なわりに実際読まれていない本はないだろう。大方の人にとって、道徳律の本という程度の認識しか無いようだ。しかし読んでみるとそう簡単に割り切れる内容ばかりではない。 さて聖書では死についてなんと書いているか? よい行いをした人が天国に行き、悪い行いをした人は地獄に行くと書いてあるだろうか? 聖書の中に「伝道の書」とか「コヘレトの言葉」と題される書がある。栄華を極めたソロモン王が書いたものとされている。ここでの死生観についていくつか引用してみると、 「知恵と知識を深めて苦労して国を治めて繁栄を築いたことも、あらゆる快楽を求めてそれを楽しんだことも、全ては風を追うのに等しく空しいことだった。」 「生きているものは知っている。自分がやがて死ぬということを。しかし死者はもう何一つ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、その名も忘れられる。」 「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているに過ぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。全ては塵からなった。全ては塵に返る。」 「太陽の下、与えられた空しい人生の日々。愛する妻とともに楽しく生きるがよい。それが太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦への報いなのだ。」 今はこれらの言葉が実感を持って心に突き刺さる。 まるで日本の古典にみられる諸行無常のニヒリズムとそっくりではないか。やはり我々はただ生き、ただ死ぬだけなのか。そうであれば死ぬ間際の自己満足によってしか生を全うできないのだろうか。 (誤解の無いように言っておくと、これは旧約聖書、つまりキリスト誕生以前の死生観であり、キリスト教ではこのように死に定められた人間がキリストの十字架によって救済され永遠の命を得るのである。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.11 14:01:42
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