|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「ゲノムと聖書」・・・科学と信仰の折り合いをどうつけるか。著者のフランシス・コリンズは医学研究者であり、「ヒトゲノムプロジェクト」のリーダー。福音派のクリスチャン。
歴史において、キリスト教の名の下に、ヨーロッパ白人によって数々の残虐行為がなされてきたのはなぜか?(アメリカでのインディアンに対する侵略、虐殺もこれに含まれる。) 彼らヨーロッパ人はキリスト教を錦の御旗にして、「異教徒は人間では無い。従って殺しても良い」という考えの下、十字軍の遠征で、西インド諸島で、アフリカ大陸で、インドで、暴虐の限りを尽くしてきた。学校で習うところの世界史とは、ヨーロッパが世界を侵略する歴史といっていいだろう。 特にアメリカでは、マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)などという言葉で、自分たちの侵略行為を神からの使命であると勝手に解釈し、それが今日まで続いている。 実際に聖書でイエス・キリストの言葉読んでいくと、彼らの蛮行を正当化する言葉は何一つ見あたらない。それどころか全く反対である。 「汝を迫害するもののために祈れ」 「右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい」 「剣に頼るものは剣により滅びる」 「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。(これはパウロの言葉)」 これらがいずれも彼らヨーロッパ人の蛮行と矛盾している。 フランシス・コリンズも同じような疑問を持っていたのだろう。 このへんに関して彼は 「神の真理という清い水は、錆びた容器に入っている」 と表現している。 結局キリスト教は、彼らの征服欲を正当化するための方便として利用されたのだ。Manifest Destinyなどというご都合主義な言葉はその最たるものだろう。 そしてその逆、すなわち信仰の下で多数の素晴らしい働きがあったことも事実である。キング牧師の公民権運動がそうであるし、マザー・テレサの献身的な奉仕もそうである。また、中村哲さんのアフガニスタンでの援助活動もそうだろう。その他表だっては出てこないが、信仰ゆえに自分の命を惜しまず他人のために奉仕している人が大勢いる。 「清い水が、清い容器に入っている」例もたくさんあるということだ。 しかし残念ながら歴史の大筋は錆びた容器を中心にして作られ、現在の世界の大枠が出来上がっている。 錆びた容器のために信仰は大いに汚された結果、キリスト教=残酷な宗教というイメージが我々にはある。しかしゆがめたのは人間の側だったのだ。 フランシス・コリンズの主張を読むと、なるほどキリスト教があろうとなかろうと人間の愚行は止めることができなかったのかもしれない。それこそが人間の原罪かと思える。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.05.19 22:09:38
コメント(0) | コメントを書く |