長寿国日本
久しぶりに用事があって京都に出かけてみた。街の中心に古くからあった小学校がいつのまにやら老人介護施設に変わっていた。建物は小学校のままなので、看板をよく見ないとわからない。市街地の子供の人口は年々減少しているらしく、児童がいなくなったため廃校となり、老人介護施設として利用されているようだ。おそらくは、この小学校を卒業して50~60年経って、再びこの建物にお世話になっている老人も多いことだろう。まさに少子高齢化の縮図といえる。長寿国といわれる日本だが、医療の進歩がその一端を担っていることは間違い無いだろう。数十年前なら脳卒中や心筋梗塞などは最初の発作で死んでしまった人が多かったけど、今じゃとにかく病院へ運ばれれば取りあえずは助かることが多い。しかしそれ以前の日常生活に戻れることは少なく、介護などのお世話を受けて生きていくことになる。要するに簡単に死ねなくなったということだ。医師であり作家である久坂部羊氏は「日本人の死に時」という本で書いている。=近代医療の発達する前は、たいていの人が自分の家であまり苦しますに死んでいました。自然に任せておけば、人間はそれほど苦しまずに死ねます。それは動物の死を見ても明らかなことです。死が苦しくなるのは、人間があれこれ手を加えるからです。=確かにそのとおりだ。私の父方、母方の両祖父とも脳卒中のため自宅で亡くなっている。その頃は脳卒中など治療法が無いから入院するということも無かったのだろう。倒れて一月も経たないうちにで家族に看取られながら亡くなった。ところが今では病院に入院してしまえば、なかなか死なせてもらえない。例えば、口から栄養を摂れなくなった老人に対しては、PEG(胃ろう)により栄養を補給することが普通に行われているようだ。腹に穴を空けて、そこから直接胃にチューブを差し込み栄養を送り込むというものである。こんなものに何の意味があるかと思う。口から栄養が摂れなくなるというのは、死に時が来ているということではないか。緊急避難的にPEGで乗り越えればその後は元の生活に戻れるというのなら価値もあろうが、徒に延命のためだけにPEGで栄養を与えるなどというのは生命の尊厳を損なうことにすら思える。いったいそこまでして寿命を延ばすことに何の価値があるのだろうか。80才以上で生きるに値する生活を送っている人は何割ぐらいいるだろう?「やることがない」とか「退屈でしょうがない」とか「毎日周りの人の世話になっていて心苦しくてしょうがない」と思いながら生きている人、認知症のためそんな感情すら無くなってしまっている人・・・一般的に長寿は幸せなことだと思われているが、デイサービスなどで老人を集めてチーチーパッパと幼稚園のようなお遊戯をさせられている姿をみると、何とも言えない気持ちになる。かつては社会に貢献し活躍してきた人達、特に今80代の方々は戦後の日本の復興を支えてきた世代である。その方達が今や社会のお荷物のようになって、子供だましのお遊戯で人生の最後の時間を潰さざるを得ないのは屈辱的ではないだろうか?人間いずれは死ぬ。今のように簡単に死ねない時代にあって、自分の死に方をどうするのか?は大きな問題だ。