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と、最近思っていますが、ほんとにそうだと実感します。
自分自身の研修のシステムの再構築の必然性に駆られています。 いままで、ごにょごにょ言っていたのが、実は、かなり整合性がある 説明が可能になったのであります。(中身は言わない・・みたいな汗) 前も似たようなことを書いたけど、 「私」が世界に起こしているのか、「私」の世界に起きているのか、 「私」が世界から起きていることに対応しているだけなのか?どれでもいい気もするし、呼応しているような気がします。ほんとうに。 多分、仮説ですが、まだ見えてないだけで、精緻に世界と自分は一致しているのではないか?とすら思えてきます。 「引き寄せ」というと、世界と自分に分離感がある言い方だ。 なぜなら、世界より自分が小さいから「引き寄せる」必要があるからだ。もし、「ひきよせられている」のが自分の一部だとしたら(つまり世界は自分の中にあるという意味でもあるが)、わざわざ引き寄せなくても、「もともとあったこと(もの)に気づく」だけだとも言える。 そのまま語るとあやしくなるのですが(汗)、しかし、起きることはどうみても「仕組まれている」としか思えないようにしか物事は起きない。無理やり起こしても、すぐに消える。多分それは何かのフェイクだからである。 そんなふうに思うと、世界にどれだけ応えるか?だけだと言い切ってしまいたくもなる誘惑に駆られる。 しかし、確定と仮定との間に自分を置いておくのが一番前進になるような気もする。世界には謎があった方が楽しいからである。 「私」という現象がそれが全てだとは言わないにしても、かなり「私」を拡張しなくてはならなくなるような部分(多分、通常の認識で「世界」と言っているのが私である)まで「私」だと言ってもいいと思います。 さて、そういうグランドデザインとして、世界をどう楽しむか?ということの方が健全なんだろうと思います。 ・・・なんか、あまり新しいこといってなくてすんません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.05.15 13:32:38
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