2018年1月28日 礼拝メッセージ 林 文慧伝道師
2018年1月28日 礼拝メッセージ 林 文慧伝道師日本語訳 能瀬 愛加 姉通訳 林 佳慧テーマ:あなたは彼をどうするのですか?聖句:ヨハネ8:1-11ある年の私の誕生日に、友達が私のため小さな誕生日会を開いてくれた時、その中でみんなが私に鋭い問題を出し、私に答えさせました。その中の問題は:もしあなたが一人だけ無人島に流れ着いたら、あなたは私達の中から一人の独身男性を選んで一緒に無人島にいさせるとしたら誰を選びますか?その時私は少しも迷わないで、私とよく喧嘩をして、性格が私と真反対のある兄弟を選ぶと答えました。みんなはなぜ私が彼を選んだのかとても不思議がっていました。私の答えは、私はきっと彼と二人っきりで無人島にいるのが耐えられなくなり、何が何でも全力でその無人島から逃げ出そうとするからですと答えました。その後、私はこの笑い話を読者文献に投稿しました。そしたら、記事として取り上げられ、原稿費としてお金を貰ったのです。なので、その問題を出してくれた人には本当に感謝しています。当然、現実の生活上、私達は鋭い問題を出されることがあります。私達は時にそれを笑い飛ばすことがありますが、時に壁に当たることもあります。先ほど読んだヨハネ8:3-11のところのように、イエスは律法学者とパリサイ人の問題に遭います。律法学者とパリサイ人がなぜ神聖なのか、また彼らはなぜイエスに問題を出したのか、少しお話ししたいと思います。パリサイ人はユダヤ教の所謂エリート達によって作られた宗教団体で、彼らは崇高な信仰を追及するのを目的としており、例外的に自分は義だと思っています。律法学者の職業は聖書を転写したり、モーセの律法を研究し、人に神の律法を伝えます。彼らは上辺は十分に清く見えますが、その中身は腐敗していました。そのため、イエスはよく民衆の前で厳しく彼らを戒めていました。なので、彼らはイエスを恨み、よくイエスを陥れようと考えていました。今回彼らは機会を見つけ、姦淫の罪を犯した婦人を利用しイエスを試したのです。この婦人をどのように処置するべきかをイエスに問いました。もし、イエスが律法に習い石打ちの刑にするよう答えたなら、イエスの伝えている愛と恵みの福音に矛盾が生じます。また、イエスが婦人を釈放するように答えたなら、当時ローマ帝国はユダヤ人に自分の律法によって裁判をさせていましたから、イエスのこの答えはモーセの律法に背くことになり、また同時にローマの律法を背くことになるのです。イエスがどちらの答えを出してもパリサイ人たちの攻撃の機会を与えるだけとなってしまうのです。これだけでも、律法学者とパリサイ人たちのイエスに対する思いが見えてくると思います。しかし、イエスはどのように答えたでしょう。第7節に;あなたがたの内で罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい。これが一つ目のポイントです。人間は上辺で人を判断しますが、ただ神だけは全ての事情の全貌を見て判断をします。この事件の中、民衆はただその婦人の姦淫の罪を犯したという上辺だけ見ていました。彼らは婦人の過去と事件の原因には一切無関心で、ただ彼女が犯した罪という上辺だけを見て、その災いを利用しイエスに問いかけたのです。この婦人には名前はありません。彼女はただ「姦淫の罪を犯した婦人」です。あなたは一人の人の名前が犯した罪の名前になることを想像できますか?もし、ある人が民衆の前で「不倫をして捕まった夫」「貪欲なせいでフラれた彼女」「汚職をして辞退した政治家」「怠けたせいで解雇された社員」などこのような呼び名を聞いて、あなたはどのように反応しますか?多分あなたはすぐにその人に対して警戒心を持つでしょう。本当によく私達は他の人に対しての外見や行動を自分の目や耳で見たり聞いたりして判断しています。しかし、イエスは外見だけでは判断しません。彼は人の深いところを見て判断をするのです。彼が見て、また関心があるのは、その婦人の命です。イエスはこの婦人の過去を知っていました。この婦人の背景や性格を知っているのです。霊的な欠陥、その欠陥がどのような形でどれくらい大きいか、またこの欠陥を埋める為に彼女がどんな罪を犯し試してきたか、捜し求めてどのような行動をしてきたか、そして姦淫の罪を犯し、ある日捕まってしまったこと全てを知っているのです。その一つの過程は一瞬で起きた事件ではありません。イエスは私達の人生の全てを知っているのです。私達の出会い、考え方全てを知っているのです。そして、彼だけが事情の全てを見ることができたのです。日本の有名な監督で「北野武」がいます。彼には、よくお金をせびる母親がいました。北野武は毎月お金をせびる母親の電話を受けていました。もし、お金を貰ってない時、母親は大声で罵ったそうです。しかも、北野武がお金をもっと多く稼ぐと彼の母親はもっと多くのお金をせびるようになりました。北野武は母親が嫌いで、家にもほとんど帰りませんでした。その後、母親は亡くなった際、北野武は家に帰り葬式に参加しました。葬儀後、お兄さんが母親から頼まれた一つの袋を彼に渡しました。その中には一つの手紙と通帳が入っていました。母親は北野武がお金遣いが荒い上に友達に対してとても気前が良いことを知っていて、お金を使いすぎ、老後何も頼るものがなくなることを心配していました。なので、毎月彼にお金をせびり、彼の代わりに全てのお金を貯金していたのです。もし、母親の行動だけを見た場合、とても冷たくお金好きな母親でした。それは北野武が最初に見ていたことですが、母親の手紙と通帳を受け取ってから、北野武は母親がどれだけ自分の将来について心配していてくれたかわかったのです。事実の真相と見てきたことはまったくの反対でした。婦人を捕らえた律法学者、パリサイ人、また野次馬で集まっていた群集はただ婦人の犯した犯罪行為のみ見ていました。もちろん私達は彼女の犯してはいけなかった罪があるのを否認はしてはいけません。しかし、どのような衝動が彼女にこのような罪を犯させたのですか?律法学者パリサイ人は知りません、野次馬の群集も知りません、私達もわかりません、ただ基督だけが知っています。もちろん私達は神ではないので、事件の全てを見ることなんてできませんが、ただ単純に上辺だけを見て判断しないようにすればいいのです。聖書の第一サムエル記16:7には「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」神は私達に神の見方を学び、人の心に注意するように言っています。他の人の命、考え方に対して、上辺のものだけを見るのではなく、時間をかけてその人をよく知り、勝手に人を判断してはいけないのです。深く人を知るということは、どのように人の長所を褒め、どのように人の弱いところを理解するかを学ぶ助けとなります。二つ目のポイントです;人は刑法を使い行為を更正します。ここでは姦淫の罪は石打ちの刑です。それは、懲罰を恐れることによって犯罪を防止しています。しかし、もしばれなかったら、懲罰を恐れなくていいのです。このように人の犯罪を防止できず、ただどのように自分の犯した罪を隠すかという励ましになってしまうのです。これは出口がなく、また自由な方法はありません。しかし、イエスが見ていたのは違います。聖書ではローマ3:20「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」律法はただ罪を知るだけで、自分の無能さを知り、神を顧みることによって許されるのです。しかも、イエスは刑罰と恐怖は人に正しい力を与えず、愛のみがそれをできることを知っています。だから、彼はもちろん審判の権利を持っていますが、かれはこの権利を使っていません。むしろ11節には婦人に;「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言ったのです。イエスは人に後悔の機会を与えることは、刑罰よりも大切だと知っていました。これは愛の恵みであり、人に悔い改めさせ、霊的な自由を得させることができるのです。私が16歳の時、学校の先生が私を教会に連れていきました。それから、クリスマスやイースターのときに教会に行くようになりました。しかし、私は悪いことをしている考えはなく、むしろ良い人だと思っていました。私には弟が一人いますが、彼は小さい時から問題を起こし、不誠実で、よく私の両親の頭を悩ませていました。ある日家で私と弟は喧嘩をしました。彼は情緒を失い、私を殴り怪我をさせたのです。当時の私の心の中は怒りと恨みでいっぱいで、すぐに警察に連絡し、最後まで追い詰め、彼が懲罰を受けるようにと思っていました。当時その喧嘩の為、仕事を辞め、ずっと妹の家に住んで心を休めていました。癒された後、ある友達が私を教会に誘ってくれ、私はまた教会に行くようになり、初めて真剣に聖書を学ぶようになりました。私はパリサイ人と同じように、刑罰によって弟を懲らしめようと考えていたのです。私は、弟に苦しい思いをさせることだけが、彼を正しい道に導けると信じていました。しかし、その時神は私に機会を与え、聖書を開かせ、自分の罪をわからせ、また十字架の愛を教えて下さいました。突然、私はパリサイ人の身分から、姦淫を犯して捕まった婦人側になったのです。私は自分の傲慢さを知り、またまだ怒りがあることをイエスの前で赤裸々に表しました。しかし、イエスは私を罪に定めず、むしろ十字架の上に掛かって私の代わりに死に、私にまたやり直す機会を与えてくれました。その時私は砕け、私には弟を石打ちの刑に処す権利がまったくないことを知りました。なぜなら、神の前では私も無力で神に救われた罪人で、イエスが十字架の救いを通して、私の罪を赦してくれました。罪から離れたことによって、初めて真剣に私の命の主として受け入れました。3つ目のポイントです;あなたは何と言われますか?5節の後半でパリサイ人がイエスにあなたは何と思われますか?と聞きました。最初パリサイ人たちがそのようにイエスに聞いた動機は、イエスを試す完全に悪意のある動機でした。この問題をイエスの前に持っていき、彼に判断させるとき、不思議なことに神はその悪意のある動機を生まれ変わるための動機とさせたのです。私たちは;イエスが律法学者、パリサイ人と群集に自分は罪人であることを意識させ、また婦人の罪は許されました。一番重要なのは、今日までずっと私たちは聖書の記載を通してイエスの知恵、彼の悲しみ、罪に対する苦しみ、そして人に対する愛と恩恵を知ったのです。当時私はイエスを受け入れた時、私は誠実に神の前に立って、イエスに;私は弟に対してどうすればいいですか?と聞きました。聖書には私は必ず弟を許すように言われました。これは非常に困難なことでした。しかし、イエスは私の為に神の愛によってもっと困難なことをしてくれたので、私は従うことにしました。本当に不思議で、私が弟を許したその瞬間、私の心は自由になりました。実は人の私に対しての傷害を許すというのは、自分の心を開放することができるのです。許さない心を持っているというのは、自分で苦しい監獄の中に閉じ込ているようなことであり、平安もなく、喜びもありません。イエスは婦人に;「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」といいました。きっとその婦人は当時、とても信じられないという反応をしていたと私は思います。死ぬと思っていたのに、生まれ変わる機会が与えられたのですから。きっと彼女の内心は感謝感激に溢れていたでしょう。私たちはその婦人がそれ以降罪を犯したかどうかわかりません。弟を思い返してみると、彼はいつも気が立っていました。その事件後、私は彼がいつも気が立っているのは彼のコンプレックスからきていて、また長男としてのストレスがあるのだとわかりました。弟は私が彼を許し、追求をせず、過ぎたこととしたのを見て、とても感激していました。そして、何年も後に、私に謝ってきました。彼はクリスチャンではありませんが、私は主に感謝しています、今日までずっとこの弟は家族の中で私と一番親しくなりました。私と弟の事件は、最初私はたくさんの傷を受けましたが、それは私が罪の怖さ、影響を認めることによって本当の基督と歩む者となることができました。なので、私は皆さんを励ましたいと思います。今日から人を上辺だけで判断するのではなく、時間をかけて相手の内心を知ってください。もし、ある人があなたに対して罪を犯したなら、その人に変わる機会を与えてください。人の犯した過ちを神に判断を任せ、どうすればいいですか?と聞いてください。私たちがそのようにイエスにどのようにいうかを託したとき、イエスは私たちの生活に関与し、また私たちの同行者となります。神を本当の私たちの命の主とすることで、私たちはもっとたくさんの彼の性格、豊富な経歴、栄光の御業を知ることができます。