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BETHESDA

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2024年08月30日
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カテゴリ:「愛」「命」



2024年8月21・23・27・28・29・30日 韓国の信仰の友より

2024.08.21.
「この神殿はアダルの月の二十三日に完成した…子らは喜び祝いつつその神殿の奉献を行なった」(エズ6:15,16)。苦労して紆余曲折の末、ゼルバベルの神殿は完成されました。その地に住んでいた人たちの執拗な妨害もあって、約20年という年月かかりましたが、ついに成し遂げました。当事者たちの心の苦労は言葉では言い表すことのできないものであったことでしょう。だからこそ、奉献式の時の喜びとは最高のものであったと思います。「喜び祝う」と訳されたべヘドゥヴァーという形の語彙はここでのみ使われた言葉です。神殿を奉献するとはこの世の何にまさる喜びであるという意味で著者がこの形の語彙を用いたかもしれません。計算機を打つ時間よりも、恵みを求める時間が長ければ長いほど、喜びは増すでしょう。私の愛する一人の牧師が今教会建築の最中です。教会建築は神の恵みによる出来事です。時には涙を通して、時には後悔を通して、時には突然、時には鞭打たれる形で、実に様々な形で主の恵みは与えられます。そのような恵みの証しが満ち溢れる教会建築となるように祈りを持って応援します。

2024.08.23.
「エズラが…律法に詳しい書記官であり、その神なる主の御手の加護を受けて、求めるものをすべて王から与えられていた」(エズ7:6)。神殿の再建後(BC. 538-515)の約58年後、第1次帰還後の約80年後、エズラは初めて帰還します(BC458)。バビロンの捕囚期はイスラエルの民が神によって霊的に矯正される期間でありました。捕囚を通して悔い改めと生まれ変わった結果は神と神の御言葉を求めて昼よも夜も口ずさむことでありました。まさにその結晶体が「エズラ」であったと言えます。霊的に矯正され生まれ変わり、律法に詳しい人となったエズラには「主の御手の加護」「神の慈しみ深い御手の加護」(9節)が与えられていました。恵みによって救われ生まれ変わった人は律法に詳しく慣れ親しみを持つ人でした。福音から律法へと進む改革的生き方を聖書を求めます。その人には、主の御手の加護により「命のある限り、恵みと慈しみはいつもが私を追ってくる」祝福があることを覚えましょう。

2024.08.27.
「神の神殿に仕える者をよこしてほしい…慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり…有能な人物を…連れて来た」(エズ8:17、18)。エズラの帰還に必要だったのはエズラのヴィジョンに同義し、一緒に仕えて行こうとする人材を見出して一緒にいくことであり、神殿に必要な器具を運ぶことでありました。何よりもこの重要な仕事には神の慈しみ深い助けがなければならないということであります。帰還の道中に待ち伏せる敵の攻撃から守られたのも、「神の慈しみ深い助け」(31節)によるものでありました。この言葉を直訳すると「神の慈しみの手が我らの上にある」ということであります。「上にある」とは神のご臨在を意味し、だから助けになることでありましょう。私たちにも神様が共におられ、「御霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」(ローマ8:26)。共におられるインマヌエルの神の聖霊に助けられる人生となりますように祈ります。  

2024.08.28
「ぼう然として座り込んだ…ぼう然として座り込んだ」(エズ9:3、4)。第一次帰還以降、80年に過ぎたある日、エズラはペルシア王の保護によって4ヶ月間の旅を終えて無事にエルサレムに着きました。しかし来てみると、イスラエルの民の霊的実態はそれこそ「ぼう然として座り込む」しかない状況でありました。約150年前、なぜバビロンの捕囚となったのかを忘れたのか、知らなかったのか、彼らは先祖と全く同じ罪を犯していました。特に、信仰を持たない異邦の民との結婚は致命的なものであったと指摘しています。「ぼう然とした」は干上がる、廃墟になる、荒れ果てるなどの意味にも解釈できる動詞ですが、他の聖書は驚き呆れて、色を失ったと訳されます。ぼう然として座り込んで眺めることしかできない心の状態、干し上がった水気のない荒廃の状況であるということであります。しかし、それでも主によって再び生かされる恵みをいただくように祈りは許されているのであります。

2024.08.29
「今でもイスラエルには希望があります」(エズ10:2)。第一次帰還(BC537)、神殿完成(BC515)、エズラ帰還(BC458)に流れるエズラ書が言おうとしているのが神殿再建だけではなく、もっと本質的で重要なことは神の民の再建でありました。神の民としてのアイデンティティ確立という使命を授けられたエズラがエルサレムに到着、神の民の信仰的純粋さを確保しようとしたとき、何よりも問題であったのはイスラエルの民が信仰のない異邦人と結婚をしたことでありました。不信仰者との結婚は何よりも信仰の継承に妨げになるからであります。だから新約聖書も「あなたがたは信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」(IIコリ6:14)と警告します。それで、エズラの教えを受けて、神の民は自発的に異邦人の嫁から離れること決断します。家庭礼拝でこのエズラ10章を読んだ時、これはひどい!男はともかく、女はどうなる、という家内からの批判がありました。今日のキリスト者も、神信仰の純潔性をあやふやにし危険に陥れる不信者との結婚に対して、深い黙想にふけます。だから「今も希望がある」という言葉がもっと重く聞こえてくるような気がします。「今も」(アッター)とは遅くないから祈れるという意味でもあるでしょう。祈りに答えてくださる主に祈るのみです。

2024.08.30.
エズラによる第2次帰還(BC458)から14年、ネヘミヤによる第3次帰還(BC444)が成就されました。ユダから来た人々に「捕囚の生き残りで、州に残っている人々は大きな不幸の中に、侮辱を受け、エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたまま」だと聞いたネヘミヤは「座り込んで泣き(バーカー)、幾日も嘆き、食をたち、天にいます神に祈りをささげ」(ネヘ1:4)、民族の罪を悔い改め、祈りが「かなえられ」(11)自分がその城壁と城門の再建のために遣わされることを祈ったのです。「あなたに涙があることは魂があること、愛があること、誰かを愛し心から待ち望みこと、悔い改めること、わたしのためではなく、他人のために泣く涙は雨の後の虹のように美しい」と言った人がいます。ネヘミヤはもう一度涙を流します(8:9)。城壁と城門の再建が終わり、民らを集め、エズラが神の律法を読んだ時、感動と感激に涙は流れ出たのです。涙の枯れた時代であると言われます。こんな時代に、涙を流しながら祈ることができるとは主からの祝福ではないでしょうか。

韓国の信仰の友より    2024年8月21日から8月30日まで いつも有難う。



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2024年8月4日(韓国)オリュン教会日本語礼拝
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最終更新日  2024年08月30日 10時39分34秒
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