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2007年03月27日
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テーマ:お勧めの本(7278)
カテゴリ:雑考生活

およそ十年ほど前、俳人・尾崎放哉(1885-1926)がマイブームだったことがある。放哉は、五七五の定型句や季語などにも縛られず自由に表現する「自由律俳句」の名手であり、孤独と絶望感を漂わせる中に、なんともとぼけた味わいの独特のセンスが光るオリジナルな作風に、いっぺんでファンになった。


いれものがない両手でうける

咳をしても一人

手袋方ッポだけ拾った

すばらしい乳房だ蚊が居る

墓のうらに廻る

死にもしないで風邪ひいてゐる

ヒドイ風だドコ迄も青空

障子あけて置く海も暮れきる

白々あけて来る生きていた

春の山のうしろから煙が出だした(辞世)


いずれの句も、言葉の選び方、一見無造作とも思える言葉同士のつなぎ方が絶妙で、シンプルな表現の中に凝縮された情景がリアルに浮かび上がってくるとともに、この諧謔的かつ自虐的な「オモシロ悲しい」世界観が、ワタシ自身の中にある、ある種の厭世観や無常観のようなものに、妙に共鳴する感じがしたのだ。
同じ自由律俳人で言えば、萩原井泉水や種田山頭火などの方が、国語の教科書でも取り上げられていて有名なのだが、これだけ秀逸なセンスを放ちながらも、尾崎放哉は教科書にも登場せず、一部のマニアを除いて巷では無名の存在なのが非常に残念である。彼が教科書にも取り上げられない理由は、彼自身の無軌道で破滅的な生涯が「教育的でない」という判断が働いているようだが、実際のところ、彼のような人間の生涯を知ることこそ本当の意味での教育であるはずなのにと、底の浅いお上の判断につくづく馬鹿バカしくなるのである。

明治18年(1885) 誕生、1/20、現在の鳥取市に出生。本名、尾崎秀雄。
明治30年(1897) 12歳、鳥取県立第一中学校入学。
明治32年(1899) 14歳、中学3年。この頃より俳句を作りはじめる。
明治35年(1902) 17歳春、中学卒業後、9月に一高文科に入学。一級上に荻原井泉水が在学していた。
明治38年(1905) 20歳春、一高卒業後、9月に東京帝国大学法学部に入学。参禅をはじめる。秋、いとこの沢芳衛に求婚。親類の反対のため断念。酒を覚え、酒に溺れる。
明治42年(1909) 24歳、9月に東大を追試験で卒業。会社勤めを一ヶ月で辞める。 明治44年(1911) 26歳正月、馨と結婚。東洋生命保険会社に就職。
大正9年(1920)  35歳、酒に溺れ人間関係の不都合から東洋生命保険会社を退職。
大正11年(1922) 37歳春、朝鮮火災海上保険会社に支配人として職を得る。妻、馨を帰国させる。秋、肋膜を病む。
大正12年(1923) 38歳、酒による奇行により不都合を生じ会社を辞す。満州に赴く。夏から秋にかけて肋膜を病み入院治療する。退院後、日本へ帰国する。11/23、京都にある修養団体で西田天香氏が主宰する一燈園に入園する。
大正13年(1924) 39歳、一燈園を退園し、知恩院塔頭、常称院の寺男となる。院を追われ、兵庫須磨寺の大師堂へ堂守として入る。
大正14年(1925) 40歳、3月須磨寺を出て、5月福井小浜の常高寺の寺男となる。7月常高寺を去り、京都、龍岸寺の寺男となる。8/20、小豆島霊場第58番札所西光寺の奥之院、南郷庵に入る。
大正15年(1926) 41歳、4/7の晩、庵の近くに住む漁師の妻、南堀シゲに看取られて南郷庵に死す。死因は、癒着性肋膜炎の合併症、湿性咽喉カタル。戒名、大空放哉居士。


突然、十年前の尾崎放哉マイブームのことを思い出したのは、つい先日、もはや収容状態が限界を超えている自室本棚の整理をしている最中、この方哉の生涯を描いた吉村昭著『海も暮れきる』が出てきて、久しぶりに読み返していたからである。この本は、まあ例えて言えば、もうひとつの「人間失格」である。孤独に死んでいくことに憧れるという独りよがりのセンチメンタリズムを標榜しながら、一方で、人間としての究極の卑しさ・イヤらしさ・エゴイズム丸出しで、周囲の人々に思い切り迷惑をかけながら意地汚く生きる放哉の生涯を、まるで本人が乗り移っているかのようなリアリティのある筆致で吉村昭が描いた、渾身の傑作である。死期迫る床の中、糞尿にまみれて悶絶し続ける様を執拗に追う描写などは、もはや言葉にならない。
それにしても不思議な感じだったのは、あのピュアなセンスの俳句作品と、本で描かれる放哉自身のイメージとが、どうしても一致しないところである。これだけ人間の嫌な体臭が漂う男に、どうしてあんなに達観した作品が創れたのか、本当によくわからない。

十年前のマイブーム当時、この「海も暮れきる」を読んだ余韻を引きずりつつ、思い余って放哉の最期の地である小豆島にも渡ってみた。土庄の港からほど近い場所に、死に場所「南郷庵(みなんごあん)」を再現して建てられた『尾崎放哉記念館』があった。他の来訪者は誰もいない前庭に、「いれものがない両手でうける」と書いた句碑があった。その前でワタシも、なんとなく自分の両手でいれものの形をつくってみたりした。






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最終更新日  2007年03月31日 01時25分34秒
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