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カテゴリ:読書日記
いしいさんの、ひさしぶりの長編「ポーの話」を読みました。
「ポー」は、泥の川で生きる、うなぎ女たちの息子の名前。 ポーと、ポーを取りまく人びとの生が、大きな視点から緻密に描かれるうつくしい物語です。 スフスフ。スフスフ。 ポーのかあさん、うなぎ女たちの笑い声とも、川面に浮かぶうたかたのはじける音とも知れないふしぎな音楽が、物語をつらぬいています。 流れる泥の川。 川から、海へ注ぐ水。 海から空へのぼり、雨となって源流にふり注ぎ、命をつなぎ、はぐくむ水。 ポーは水の子、いのちそのものです。 そしてうなぎ女たちは、母なるものすべて。 堅い筋肉と巨大な身体を持ち、川の水と生きるもの、ふたつのちょうどいい関係を保つ役割を担うもの。 ーかあさんたちの命は、いつだって、おまえのしあわせとともにある。 ふしぎな音楽にのせて(いしいしんじの物語からは、いつだって音楽が聞こえるのです)繰り返し語られる詩の、本当の意味は、ポーの人生を最後までながめたとき、初めてわかるはず。 …いしいしんじの物語は、物語について具体的に何かを語ると、それがすべて致命的な種明かしになり、ページをめくる愉しみを減らしてしまう、という性質を持つので、ポーのお話はこれくらいに。 とても、とても大切な、人類の宝として地中ふかくに隠してあった物語を、偶然読むことができたような、衝撃的な感動に出会えると思います。 「ぶらんこ乗り」「麦ふみクーツェ」「トリツカレ男」「雪屋のロッスさん」、そして「ポーの話」と読んできて、いしいさんはわたしの人生を通して何度も何度も読み続けたい、大切な作家のひとりになりました。 同じ時代に生きて、いままさにその仕事がすすんでいるのを、遠くからでも見つめることができるのは、ほんとうに幸福だなあ! さて、「ポーの話」を読み終えて、いつものように会社帰りに本屋さんをぶらぶらしていたら、河出書房の「文藝」、秋号の特集がいしいしんじさんでした。 川内倫子さんとの対談やインタビューなどもあり、ファン垂涎の125ページ。 本はできるだけその場で買わず、手帳にメモをして図書館の在庫を調べ、見つからなければしばらく放っておき、それでも読みたいものしか買わないように気をつけているのですが(間もなく本と音楽のために破産してしまうのと、部屋が雪崩寸前なので)、これは思わずまっすぐレジに持っていってしまいました。 ところで、わたしは「ポーの話」を読みながら、ストーリーも設定も雰囲気も登場人物も読後感もまったく違うのに、ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」の影が目の前にちらついて仕方がありませんでした。 物語世界に、一瞬、同じ風が吹いた気がしたのです。 「どうしてかなー」と何となくふしぎに思っていたのですが、「文藝」をめくっていたら、何やら批評家の先生が、いしいさんの作品に「20世紀前半のフランス文学の影響」を指摘しておられる。 おやおや、同じことを感じる人がいるのねーと思いながらいしいさんの略歴を見ると、大学の学部は仏文なんだって。まあびっくり。 さらに読み進めると「恐るべき子供たち」再読、というそのままのタイトルで評論を書いている仏文学者の先生(中島らもと親友だった鈴木さんという方です)もいて、いしいさんふうに言うと、腰を抜かしました。 わたしが幼きころから古今東西の書物を乱読してきたのは、村上春樹さんふうに言うと「自分の井戸を掘るため」だったのですが、「井戸はずっと掘っていくと地底でほかの井戸に通じている」という、ハルキさんが常々言っていることは本当だったんだなあとわかって、心の底からびっくりしたのです。 大学でも、さんざん迷った挙句仏文でも国文ではなく社会学を専攻したし、物語の読み方なんか誰にも教わったことがなくて、好き放題、手当り次第に読んできたけど、それでもちゃんと、文学の場所でこつこつ「正統な」井戸を掘ってきたひとがたどり着く場所に、指先くらいは触れるんだなあって。 歴史に名を残す作家たちや、学者の先生方の足元にも及ばないけれど、平凡なわたしでも、好きなことをこつこつつづけていれば、つながるらしい。孤独にみえるけれど、本当はそうじゃないんだ、と小さな光が見えたことに、とても感動したのです。 人類の意識の底には、世界共通の感性の泉みたいなものがあり、ジャン・コクトーが、いしいしんじが、トーマス・マンが、よしもとばななが、そこで水を汲んでいた、あるいは汲んでいるのだと、わたしは1年くらい前から考えていたのですが、やはりそうだったか。 この人生で、一度でいいから、その泉のほとりにたたずんでみたいなあ。 それはそれは静かで、美しい場所なんだろうなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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