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カテゴリ:読書日記
マイルス・デイヴィス「Walkin’」を、朝の通勤途中、会社のエレベーターの中で聴く。
か、かっこいい… 最初のフレーズ、びりびりっと全身がしびれる。 20世紀のCDなら、ジャンルを問わずほとんど収蔵しているわが区立図書館。すばらしい! 内田樹「『おじさん』的思考」を読む。 ウチダ節炸裂。気分がすかっとする。 02年に出版された本ですが、政権が代わった今こそ、この本の冒頭、憲法と自衛隊に関する項がおもしろいと思います。 左右だとか赤白だとか、具体的な議論をする前提として、近代日本人(…なんて概念は、もう死んでいるのか?)が共有してきた「無意識の」思想的枠組みに、内田さんはあえてその外側に出ることで、気づかせてくれます。 賛否両論あって当然だし、私自身も内田さんの考え方に100%賛成するわけじゃないけど、頭の体操にはぴったりです。 しかし、この本の真骨頂は、第4章「大人」になること―漱石の場合、にあります。 一歩まちがえればおじさんのお説教になるところを、ぎりぎりのラインで引き締めているのは、内田先生が合気道で培った絶妙なバランス感覚のたまものでありましょう。 この章の前提として、そもそも学校というのは、先生が持つ「知への欲望」に、生徒が欲望する場だ、ということが、あらかじめ語られています(…と言っても、何だかよくわからないですよね。内田さんの文章を読むと、身体感覚としてよくわかります)。 知への欲望はエロス的な欲望にとてもよく似ているので、そこのところをわきまえない、識別できない人が教師になると、「セクハラ教師」になっちゃうんだそうです。 うーむ。それも、すごくよくわかる。 そして夏目漱石は、「わたしが『大人』となり、若者たちのロールモデルとして、彼らの欲望の対象になろう」と決意した、近代最初の大人だった、というのが内田さんの議論です。 「虞美人草」に登場する3人の若者たち、そして「こころ」における「私」と「先生」の関係が、ウチダ的に解き明かされていきます。愉快、痛快。 「欲望しないことへの欲望」という究極の欲望、すなわち「空っぽ」に欲望する「私」…って、何だか書きながらわからなくなってきました。 でも、この本を読むとすんなり頭に入ってくるんです。ほんとです。 だまされたと思って、ぜひ。頭がすっきりする本ですよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.10.04 16:44:36
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