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カテゴリ:読書日記
舞台を観てきました。
二兎社「書く女」、世田谷パブリックシアター。 作・演出はもちろん永井愛。 主演、樋口一葉役に寺島しのぶ。 一葉の師、半井桃水に筒井道隆。 結論から先に書いちゃいますが、ものすごくよかった。 現代の「書く女」、あるいは日本文学を愛する方、必見の名舞台です。 短命な女流作家の生きざまに涙が…などという次元ではない。 個人的な思い入れも重なった。 頭をがーんとぶん殴られて、ちょっと人生観が変わるくらいすごかった。 舞台装置も、よかった。 上下左右に立体的で、シンプル。 脚本と役者の要求に合わせ、あらゆる場を立ち上げる懐の深さがあった。 劇場も、2階、3階席はかなり窮屈だったけれど、想像力をかきたてるつくり。 子供向けの芝居なんかやると、いいかもしれない。 以下、芝居の内容に触れます。 これからご覧になる方は、どうか、また観劇の後にお読みになってくださいね。 田辺聖子の「一葉の恋」をお読みになってから観ると、芝居のおもしろさが何倍にもなるかと思います。 * 寺島しのぶは、悩みに悩んだ末、何かが吹っ切れて突き抜けたらしい、すばらしい芝居をしていた。 取り憑かれたような、迷いなき芝居。 竹を割ったようで、見ていて気持ちよかった。 映画「やわらかい生活」でも息をのんだが、舞台で観るとやはり迫力が違う。 3階席から見下ろしていて、ほとんど顔は見えないのに、なぜか表情がわかる。 最初のシーン、一葉が初めて桃水の家を訪れるところから、3年後のラストにかけて、一葉がみるみる変化してゆく様は圧巻。 書くことで、彼女は全身から異様なほどの色気を発し、発しながら同時に恋を失っていく。 永井愛がテーマとした「厭う恋」。 捨てて捨てて捨て去ったところに何が残るか。 桃水への断ちがたい想いを、書いて書いて書きまくる生活の中で昇華していく一葉。 一葉が桃水の蟄居を訪れるとき、いつも降りしきる細かい雨。 雨が降ると、世界はゆっくり、緩慢に狭まって、ふたりは彼らだけの生あたたかい宇宙に閉じ込められてゆく。 そしてあの有名な「泊まっていきなさい」の場面。 ぎりぎりのところで、一葉は桃水の手を振りほどく。 一葉にはわかっている。 桃水には、自分のように、後世に残ってゆくものを書く才能がない。 小説家としては、もう利用する価値がない。 夫にするほどの甲斐性もない。世間の事情もそれをゆるさない。 あるとすればただ、この恋心。 この恋心さえも踏み台にして、自分は小説を書くのだと一葉は悟っている。 日本の文学は長いあいだ、この成就してはならない「厭う恋」の、ぎりぎりの境目を頂点にして歩いてきたのだ。 折しも、外は雪。 雪が降ると、愛しいひとに逢いたくなるのが人間の性であるらしい。 冷たい雪に煽られて一層燃え上がる恋心を、一葉は「雪の日」という美しい小説に仕立てる。 * じっと舞台を見つめながら、だんだん、一葉と自分の境目がわからなくなる。 叶わない恋をどうやって昇華させるか。 何も持ち物のない、まだ成熟した女性にもなっていなかったわたしには、書くこと以外なかった。 わたしは書きに書いた。 そして厭う恋はたしかに、書いたものの中に消えた。 いつの間にか大人になり、もう、あんな死にもの狂いの恋をすることもなくなった。 では、その後は? その後、一葉は何を書くのだ? 病に倒れなかったら、わたしの年になった一葉は、一体何を書いてゆくのだ? この、前も後ろも定かではない世の中で、若い女性が生きる道を指し示すとでも? 死に瀕した一葉は、ひとりの部屋で、ゆっくり、ゆっくり、墨を擦る。 (後で一葉全集で写真を見たら、文机まで一葉が本当に使っていたものそっくりに再現していた。小道具の執念) 魂を削るように、命を刻み付けるようにして、一葉は書く。 彼女はおそれない。 一葉には、書くべき言葉があるから。 そして彼女は、「書く女」たちは言うのだ。 何度でも、繰り返し。 全財産を失っても、愛する男を失っても、ひょっとしたら命を失っても。 さあ。次は、何を書こうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.10.09 23:06:57
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