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カテゴリ:読書日記
前の記事のつづき。
ほかに、ABCで買った本。 中沢新一「三位一体モデル」 ああ、びっくりした! だって、何回読んでも、全然意味がわからないんだもの。 帯では、毒舌のタモリもこの本をほめていて、あんなにお話のわかりやすい糸井さんもほめちぎっていて、本の末尾に紹介されている座談会の出席者たちも、みんな三位一体モデルについて深く理解できている様子。 なのに、わたしには全然わからないの!なんで? 文章はわかりやすくて30分で読めるのに、何が書いてあるのか、ちっともわからない。まるで暗号みたい。 なんだか、外国で道に迷ったときみたいに心ぼそくなって、何度も読み返してみた。 3回くらい読んでわかったことは、「もっとごちゃごちゃ難しく、わかりにくく、長く書いてくれないと、わたしのように思考回路が単線的なひとにはわからないらしい」ということ。 この本に紹介されているのは「三位一体モデル」の超基本的な原則で、このモデルを応用した具体例が数えるほどしか登場しないので、人生経験の少ない若造には、「自分の経験に当てはめてぴんとくる」ことができないみたいです。 中沢先生、何だか奥の深そうな、頭のよさそうな方だものね。 あっちへ行ったりこっちへ戻ったり、もっとわかりにくい文章だったら「おや?」って引っかかるたびにいちいち立ち止まって考えるから、少しずつ理解が深まっていくのに。 こんなにすらすら読める文章にしたら、引っかからないですすーっと最後まで読んじゃいますよ、先生! 新聞の書評欄で見かけて、ずっと気になっていた。 「テヘランでロリータを読む」。 読み応えのありそうな本。まだ手を付けていない。 帯にはこうある。 「イスラーム革命後のイラン、大学を追われた著者は、禁じられた小説を読む、女性だけの読書会を開く。監視社会の恐怖のなか、精神の自由を求めた衝撃の回想録。」 誤解をおそれずに書くと、ナボコフの「ロリータ」のような小説は、現代日本のようにあらゆる欲望が多様化し氾濫した社会で読んでも、多くの人にとってはぴんとこないと思う。 ヘンタイも、ロリコンも、ストーカーも、この国ではすっかり日常的な言葉になってしまった。 「チャタレイ夫人の恋人」の削除部分を復活させた新版だって、出版のニュースにどきどきしてページを開いたものの、拍子抜けした人がたくさんいたはず。 けれど、テヘラン。時代はイスラム革命直後。しかも筆者が女性。と条件がそろったら、どうなる? 読書の快楽は、内容が刺激的かどうかよりも、今この時代、この日、この時、この場所で、この性別、社会的立場を持つ私がこの本を読むことが、私の知的欲望を刺激するかどうか、という外的な条件によって相当部分が決められるように思う。 今の日本みたいに、あらゆる欲望が白日の下にさらされる社会で読書の快楽を得るには、自分で自分にさまざまな禁止条件や制約を課さなくちゃならない。 世界中の、たくさんのすばらしい本が自由に手に入るのはかけがえのない、本当にすばらしいことだけれど、知的な快楽を得るために涙ぐましい、ときに滑稽なほどの努力が必要になってしまった社会って、見方を変えればとても不自由だ。 …なんてことを思いながら、この本のページを開きます。 さて、読み終わったら、題名に対する感じ方が変わっているかな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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