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カテゴリ:読書日記
いま読みすすめているアーザル・ナフィーシーの「テヘランでロリータを読む
」に感化されて、この本に登場する名作を片っ端から読み返している。 スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」もその1冊。 せっかくなので、村上春樹さんの新訳をひもとく。 フィッツジェラルドと妻のゼルダ、何よりJ・ギャツビーに敬意を表して、先週解禁されたボジョレ村の新酒をちびちびといただきながら、読む。 あれ? ギャツビーって、こんなに美しい小説だったっけ? 記憶では、もっと俗っぽくて重苦しくて…などと思う間もなく、泣くはずのないところでつつーっと涙が。 だって、あんまりうつくしいんだもの。 ギャツビーの夢。 大切に育みすぎて、あらゆる現実を凌駕してしまったその夢の、なんと蠱惑的なことだろう。 入り江の向こう、ゆらめく緑の灯火に向かって両腕を差しのべるギャツビー。 ああ、なんてうつくしい眺めなんだろう。 …これは夢見がちなわたしの思いつきなのだけれど、その景色はどこか、「ハウルの動く城」で、ハウル少年が悪魔と契約を結ぶ姿に似ているようだ。 いっぱいの星が流れる夜の草原で、青い光に向かって手を差しのべる魔法つかいの。 それにしても、こんなにいろいろなひとが強引な方法で死を迎え、生きている人間の間には絶え間なく愛憎が渦巻く小説だというのに、この軽快な余韻はどうだ。 重苦しい気持ちになるどころか、胸の真ん中に大きな風穴が開いて、爽やかな緑の風が吹き抜けてゆくような心持ちさえする。 たぶん、これがハルキ氏の言う、ギャツビーの魅力なのだ。 読み手を取り巻く環境によって、まるで違った(修辞としてではなく、文字通りの意味で)小説のようにみえる、奥深さ。普遍性。 10年前、初めて読んだときは、ギャツビーの愚かさばかりが鼻について、途中で放り出してしまった。 ギャツビーの哀しみの一端がわかる程度には、わたしも大人になったということか。 いやいや、何よりも、ギャツビーを愛するハルキさんの日本語が、圧倒的なのだ。 すべてのページ、あらゆる行間に、訳者の敬意と情熱がこめられている。 すさまじい翻訳ですよ、これは。 それにしても、日本語で読んでこれほど美しいのだから、原語で通読することができたら、すばらしい感動におそわれるだろうなあ。 英語、苦手なんだけど、がんばって読んでみよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.11.28 21:09:02
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