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カテゴリ:読書日記
最近読んだ本たち。
内田樹「村上春樹にご用心」。 題名から、村上春樹を批判した本かと思っていた。 村上春樹の物語はあんなにおもしろくて、たくさんの言語に翻訳されて地球のあちこちで読まれているのに、なぜ批評家たちはさまざまな理由をつけて批判したがるんだろう。 もういいじゃないか、文句なくおもしろいんだから。 …と、思いながら読みはじめたら、つまりそういうことが書いてある本だった。 村上春樹の作品のおもしろさをさまざまな視点から解き明かし、村上春樹の代わりにさまざまな批判に反論し、なぜ村上春樹が世界で読まれるか、その秘密を痛快な内田節であぶりだす。 中でも印象的だったのは「邪悪なもの」についての記述。 不条理なできごとに直面したとき、われわれはそのできごとに何らかの意味を見出そうとする。 けれど、実際には意味なんてない。必然性も、目的もなく、ある日突然、そのできごとはわたしたちの前にあらわれる。 その予感のうちに生きている人間だけが、村上春樹が「ダンス・ダンス・ダンス」で書き、内田先生が本書の中で繰り返し書いている「雪かき仕事」の大切さを知っている…のだそうです。なるほど。 だから村上春樹を読むと、「面倒だけど洗濯物は放り出さずにちゃんとたたもう」とか「いつまでも本を読んでいたいけど、カレーの鍋のアクをすくうことも大事だな」などと思うのだな。 村上春樹「風の歌を聴け」。 内田先生の本を読んだ勢いで、数年ぶりにページをめくる。 すごいな、すごい。何がすごいってうまく説明できないけど、とにかく圧倒的だ。 村上春樹の物語を、わたしは「小説」というより「物語」と呼びたくなる。 いしいしんじや、小川洋子を読むときも同じ「感じ」を抱く。 さかのぼって内田百間にも同じ「におい」をかぐ。 この世ならぬもの、理屈では説明のつかないもの、存在しないもの、あちらとこちらの境目。ほんとうはすぐそばにある、死ぬということ。 「小説」は頭の中に登場人物の相関図を描いて、テーマに添って動かすことで(形だけは、とりあえず)書きすすめられるけれど、「物語」はそれだけじゃ一行も動かない気がする。 それは「神話」とか「昔話」と呼ばれるものに近い。 どこから来たのかわからない、でも作家ひとりの頭の中から湧き出てきたものではない、根源的で集合的な記憶。 どこか北欧あたりの森の奥ふかくには、物語の眠る泉がある。(ほんとうに?) わたしはそこへ、是非とも行きたい。 行って、その水を汲んでみたい。 「澁澤龍彦 幻想美術館」 2007年に埼玉、札幌、横須賀を巡回した、同名の展覧会の図録として制作された大型本。監修と文章は巖谷國士。展覧会で展示された絵画や写真はもちろん、澁澤龍彦をめぐる260人の人びとの名鑑もついている。 ダリ、エルンスト、マグリット。 サド侯爵の手紙。澁澤龍彦本人に宛てられた、堀内誠一氏の手紙。 小林健二のラジオ。 ベルメールの人形。 澁澤龍彦自身の心象風景のような、書斎の全景は篠山紀信の撮影。 ああ、なんて豪華なの! 扉に小さく記されている通り、この図録をめくる行為そのものが、澁澤龍彦の頭の中に存在した「幻想美術館」を体験するのに等しい豊かさを持つ。 ページをめくるごとに、のぞいてはいけない、開けてはいけない秘密の扉を開く興奮を味わえる。 ため息をつきながら繰り返しめくる。 ああ、手元に置きたいなあ。けれど手に入らないほうが、この恍惚感をいつまでも味わえるのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.03.06 19:59:33
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