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カテゴリ:読書日記
梅雨入り前の貴重な日差し。
むだにする手はないので、カーテンを片っ端から洗う。 今日もよくかわきそうだ。 鳥もいそがしくさえずっている。 ぴちゅぴちゅぴちゅぴちゅ。ちち。きりきり。 今は鳴いていないけど、このあたりにはねじまき鳥もいる。 クロニクルという名前かどうかは知らないが、朝と夕方のきっちり2回、ぎー、ぎーと世界のねじを巻いている。 ジョギングは、いつもとちがうコースを走ってみた。 川までまっすぐ、橋を渡りきったところでUターン。 さくらんぼがだんだん色づいて、日当たりのいいところはもうつやつや赤く染まっている。 シャワーを浴びるついでに、お風呂を磨く。 週末に弟たち(くまの)が遊びにくるので、いつもより少し念入りに。 合間に書きものをする。 書く時間は「かすめとる」のだと、ジュリア・キャメロン女史が書いていた。 部屋を整えお茶を淹れていつまで待っていても、「まとまった時間」が向こうからのしのし歩いてくるわけじゃない。 5分、10分、15分。かすめとって、言葉のしっぽをつかまえる。パッチワークみたいに、書いていく。 古い日記を読んでいたら、「生きるために働くのか、働くために生きるのかわからなくなりました」とわたしが恩師にぐちをこぼし、「理由なんてわからないけど楽しいから仕事している、というのがいちばんいいんだよ」といさめられた日の記述が出てきた。 理由なんてわからないけど楽しいこと。 ほんとうは知っていたけれど、手に入れるのにあれやこれやで10年近くかかった。 やっと見つけた。もう手放さない。 * 宇野千代の随筆集「生きて行く私」を読む。 以前、人と鈴木真砂女の話になり、真砂女がおばあさんになっても足の爪を塗り、砂の上に置いたその爪をさくら貝にたとえていた話をしたら、 「宇野千代も晩年まで爪をさくら色に塗っていた。うつくしいひとだった。ぜひ宇野千代を読みなさい」 と言われたのを思い出して、読んだ。 宇野千代はたくさん恋をした。 ひとを好きになるたびに、引っ越しをする。家を建てる。 傷つくことも傷つけることも世間の目もおそれず、思い立ったら即、行動する。まるで嵐のようだ。 後ろは振り向かない。なつかしむことはあっても、後悔はしない。きっと心が子供のように純真なのだ。 その潔さに、恋心がなくなった男の人たちもその係累もみな、宇野千代から離れていかない。恋人とも友達ともつかない、ふしぎな縁がのこる。 なんと大胆で魅力的なことだろう、とあこがれるけれど、同時にその後ろに残された、飽きられた、捨てた捨てられた人や家との縁を思わずにいられない。 真砂女も情熱的な恋に落ち、ひとかなします恋をして、と詠んだ。 けれど女将として実家の旅館を守り、後には銀座に小さな店を構えて、晩年までその明かりを灯しつづけた。 四十年間愛したひとが亡くなったときには、寺の門の外でひとり通夜をした。 これはもう単なる好みだと思うが、場所を守る役割を担い、わが身と来た道を折に触れ振り返りながら生きた鈴木真砂女に、どちらかと言うとわたしは愛着が持てる。 自分をしばる糸をちょん切って、漂泊する日々の中でしか見つけられないきらめきはもちろんあるだろう。 でも、あえて自分の足に糸をかけ、やんわりとしばりつけることでしか見えない景色もある。 何を冒険と思うかのちがいなのだろう、きっと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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