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カテゴリ:読書日記
池田晶子・陸田真志「死と生きる―獄中哲学対話」を読む。 哲学者(池田氏)と死刑囚(陸田氏)が、死ぬことあるいは生きることについて、妥協も甘えもごまかしもない、本気の言葉で語り合う過程が、生々しく収められている。 発端は、陸田氏が池田氏に書き送った一通の手紙。 そこには獄中で池田氏の著作を読み、陸田氏いわく「そうであったのだ」と気づかされた経験がていねいに記されていた。 陸田氏の冷静な分析力と文章力を見ぬいた池田氏が、東京拘置所宛てに返事を書き送ったことから、雑誌上でふたりの「公開」往復書簡がはじまる。 死刑判決を受けた囚人には、宗教家と接触する機会があると聞いたことがあるが、陸田氏がえらんだのはキリスト教でも仏教でもなく、「哲学」だった。 むさぼるように本を読み、みずからが「わかった」状態にあることを、理詰めで哲学者に書き送る囚人。 陸田氏が死刑囚だからと言って何ら特別あつかいすることなく、その甘えや若さゆえの未熟さを容赦なく、しかし愛をもって率直に指摘してゆく哲学者。 たちまちのめりこんで読む。どのページにも命がけの言葉が並んでいるから、夢中で読んでもなかなか先にすすまない。 陸田氏が控訴せずに一審の死刑判決を受け入れようとしたとき、「書かせてあげたい」という一心のために「控訴しなさい」と記す池田氏。 不特定多数の読者を意識するあまり、書くことに行き詰まった陸田氏が、池田氏の手紙で軌道修正し、「愛」について、あるいは自分が殺人者になった心理について、哲学的に思索を深めてゆく。 思索というのは、一歩まちがえると、とても危険なものだと思う。 それは新月の夜、暗闇の海を小舟でわたるようなものだ。 道しるべの灯台がなければ、かなり高い確率で道に迷ってしまう。 思索の場合、道標の役割を果たすのは生身の人間だけれど、それは生半可な覚悟でできることじゃない。 灯台は絶対の「善」であるべきだし、道しるべに徹しなければならない。舟をあやつる旅人の手つきがどんなにおぼつかなくとも、手を出さず腰をすえて見守る根気も必要だ。 そして、灯台としてのその距離感が、池田氏は完璧なのだ。つかず、はなれず、甘やかさず、しかし愛を持って、辛抱づよく旅人の成長を見守っている。 心にささったのは、とかく理性にはしりがちな陸田氏をいさめた池田氏の一言。 「最終的に人に届くことができるのは、愛のある言葉だけだということを、しっかりと肝に銘じておいて下さい」。 池田晶子さんは昨年、47歳で亡くなった。 陸田真志氏は今年6月、37歳で刑死した。 哲学対話の続きを聞くためには、向こうへ行くまでもうしばらく、わたし自身の「死」を生きなければならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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