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テーマ:日々自然観察(9783)
カテゴリ:花と木、葉っぱ
公園にやってきた。 日当たりのいいベンチを見つけて腰かけ、首をそらす。青い空がみえる。 ほんの一週間前、あざやかに色づいていた木の葉も、ずいぶん落ちた。 今日は快晴。風はひんやりするが陽ざしはあたたかだ。フランスを思い出す。 冬が近づいているので、正午すぎだが太陽はあまり高くない。 ななめに差しこむ光のなかを、親子づれが歩いたり、ビニールシートを広げてお弁当を食べたり、ボール遊びをしている。平和でしずかな昼下がりだ。 この公園が家の近所にあったことを、わたしはわりと長いあいだ忘れていたような気がする。 外の世界に自分を変えてくれる何かがある、宮澤賢治の言う「どこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思」っていたころ。 さっきから、わたしの頭上で、クモの子が銀の糸にぶら下がってゆらゆらゆれている。 目の前の木の、枝先にぶら下がっているらしい。 ふわーっと飛んで、一度は手提げかばんの中に入ってきた。 ひざの上にはてんとう虫ものぼってくる。ふたつぼし。星が黒い種類だ。 目をつむると、耳のなかで風のうずまく音がする。カラスの声。子どもの声。誰かが落ち葉をふむ音。 毎年秋になると思い出すことばを、声には出さず、ゆっくり唱える。 目頭が熱くなって、胸がしめつけられるような心持ちになる。 そういうふうに感じられなくなったら終わりだ、と思いながら、何度か唱える。 あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが、それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりいるやうな訳です。 私のかういふような惨めな失敗はただもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に誤って身を加へたことに原因します。 僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが、何か自分のからだについたものででもあるかと思ひ、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからか自分を所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して、却って完全な生活をば味わうこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り、したがって師友を失ひ憂鬱病を得るといったやうな順序です。 (宮澤賢治最後の手紙より、教え子柳原昌悦宛) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.02 22:02:36
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