|
カテゴリ:読書日記
須賀敦子「霧のむこうに住みたい」を読む。 このひとの随筆を読んでいると、心の波がしずまる。 読みながら顔を上げると、見なれた風景も、粒子がこまかくなったように感じられる。 須賀さんの随筆を知らなかったころ、イタリア、と聞いて思いうかべるのは南部の明るい陽ざしと青い海。太陽の色をしたトマト。それに陽気な男たちだった。 けれど須賀さんの随筆を通りすぎた今はちがう。コルシア書店。トリエステの坂道。ミラノの霧。静寂とかすかな哀しみ、しっとりした叙情と繊細な心のまじわり、本のにおいに満ちた薄やみが、イタリアをおとずれたことのないわたしにとって、かの国のイメージになった。 「霧のむこうに住みたい」は、この本が刊行された2003年当時、単行本に収録されていなかった文章を集めた随筆集。解説は江國香織。 こんなにすばらしい、宝物のような作品たちを、とりこぼされすことなく、きちんとすくい上げてくださってありがとうございます、と編集者の方にお礼を言いたくなるような一冊だ。 たとえば、ナタリア・ギンズブルグ「ある家族の会話」の翻訳について書かれた一遍。 須賀さんは、翻訳者としてつよくこの書にひかれながら、一方で、作者とのあいだに適切な距離をとる姿勢をくずさない。 文章を体よくまとめるため、あるいは後味をよくするために、本当はまとまっていなかった考えを、無理やりまとめたりしない。 ていねいにつづってきた文章を、思い切りよくぶった切るいさぎよさもある。 こういう文章を読んだとき、わたしは「須賀敦子さんにお会いしたかったなあ」と心から思う。 あるいは「白い本棚」と題された、三ページあまりの短い文章。 「本ばかりのその部屋に白木のままの本棚があった。」ではじまる第一段落と、 「夫が死んで二年ほど経ち、」とつづけられる第二段落。 そのあいだ、ほんの数ミリの行間にどれほどの思いがあるか、須賀さんはいっさい語らない。 語らないために、読者であるわたしたちの胸はいっそうざわめく。 本棚を半分こしてよろこんだ数カ月後、若い夫が突然亡くなってから、ああ本棚を白く塗ろうと思いたつまでの長い時間、その心の動きに思いをはせずにはいられない。 須賀さんに本棚の塗りかたを手ほどきする、無口な義弟の存在も印象的だ。 別の随筆で、この義弟は、「進歩的すぎるといって自分では読まない新聞を、死んだ兄貴のつれあいである私のために買ってきてくれ」る。 夫が亡くなった後、日本に引き上げた須賀さんのため、四半世紀のあいだ、イタリアのクロスワード・パズル雑誌を日本に送りつづけたりもする。 そして終盤、「パラッツィ・イタリア語辞典」が登場する。 ブログに引用させてもらう文章としてはすこし長いかもしれないけれど、大好きな場面なので、最初の段落を引き写したいと思う。 「三十年まえに死んだ夫が、結婚して一週間も経たないころ、つとめていた書店から重たそうにかかえて帰ってきた、それがこの辞典だ。きみのだ、といって、もう夕食の支度のととのったキッチンのテーブルに、どさっと置いた、その音までを憶えているような気がする。夫になった彼からの、はじめての贈り物だった。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.03 11:44:24
コメント(0) | コメントを書く
[読書日記] カテゴリの最新記事
|