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カテゴリ:読書日記
長田弘「読むことは旅をすること」を読む。 500ページにおよぶ、ずっしりと重い本。 半月以上かけ、毎日少しずつ読みすすめる。 著者は書く。 「読み終えて終わるのでなく、読み終えたところからはじまる、もう一つの読書がある。そのようなもう一つの読書が、わたしには旅だった」。 その言葉どおり、詩人たちの足あとをたどって、著者は世界じゅうを旅して回る。 スペイン、ポーランド、アメリカ、メキシコ、フランス、イタリア、ロシア、シンガポール、そしてイギリス。 今は亡き詩人の言葉をめぐる旅は、詩人の墓をめぐる旅。彼らが生きた時代の戦争と、パトリオティズムをめぐる旅でもある。 長田弘の言う「パトリオティズム」は、いわゆるナショナリズムと同義ではない。 パトリオティズムについて、著者はこんなふうに書いている。 「パトリオティズムというのは、言ってみれば自分の居場所ということだと思うのです。自分の居場所がそこにあるという濃密な感覚の容れ物が、自分にとっての国というものだということ。権力の側に国があるというナショナリズムとは逆に、日常の側にこそ自分の国はあるのだ、ということです」。 風景、地名、建物、習慣、身ぶり… 日常の暮らし、地に足の着いた「ひとり」のあり方の中に、国というものが成り立っている。 * この本を読みはじめたとき、わたしは、著者があえて戦争のあった土地を選び、戦争について書かれた詩をとり上げているのだと思いこんでいた。 けれど、読みすすめるうち、どうもそうではないらしいと分かってきた。 最初に「詩人」がいて、「詩」を書くために、テーマとして戦争を選ぶのではない。 まず戦争があり、巻き込まれるひとりの人間がいる。その苦悩や葛藤を昇華するひとつの手段として詩がえらばれる。詩で表現することを選んだ人間が、ずっと後になって詩人とよばれる。 日本は、よくもわるくも、人種や民族、土地の境界について考える機会が少なかった国だと思う。 だからわたしには、「詩と戦争」「詩とパトリオティズム」というような組み合わせが、最初はやや唐突に感じられた。 けれど、たとえばヨーロッパのように、何度となく血を流しながら境界線を引きなおしてきた土地の人びとにとって、詩の言葉は、その初めから当たり前のこととして、国、権力、政治、戦争…と深く結びついている。 長田弘は書く。 「国というのは、何も政府、権力のものなのではない。言葉もまたおなじなので、言葉は、何も政府、権力のものなのではない。権力というのは何にもまして言葉の体系ですが、権力にとっての言葉というのは、何であるより権力を確認する手立てであり、権力を行使する方法であり、そうして権力の記録であるものです。そうであれば、権力の側にではなく、日常の側に自分の国をもつというのは、権力のもつ言葉の体系のこちら側に、自分自身の言葉をもつということです」。 言葉をもつことは、誇りをもつこと。 土を、風景を、くらしを愛すること。 深呼吸して今日を生きることだ。 学校で教わった権力と統治の歴史ではない、ひとりひとりの実感としての「言葉の世界史」を、この本は読者に問いかけている。 * 中盤すぎに紹介される「ロシアの森」という物語の中で、孤独な老蜜蜂飼いが、少年に「秘密な森の学問」を伝える場面がある。 それはたとえば、「露で天気を、森の草の根で収穫を知る法」。あるいは「松と松とが交わす夜の会話を聴きとる術」や「夜、泉の水を汲んだ柄杓のなかに星たちを泳がせる術」だ。 老人は言う。 「森のなかは、よき書物とおなじだ。読みかえすたびに、まだ読んでいないページが見つかる」。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.16 00:25:50
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