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カテゴリ:読書日記
須賀敦子「地図のない道」を読む。 「地図のない道」その一からその三、そして「ザッテレの河岸で」と、水の都ヴェネツィアをめぐる四つの文章が収められている。 「地図のない道」に描かれるのは、たとえば、何度訪れても案内ツアーに参加できないヴェネツィア・ゲットの博物館。 ヴェネツィアの運河や水路にかかるたくさんの橋を渡りながら、思い出される日本の橋。人形浄瑠璃「心中天の網島」と、祖母の思い出。 そして、夫の死や家族の病気を経験した著者が、「道を歩いていても景色が目に入らず、意志だけに支えられて、からだを固くして日々を送っていた」時期におとずれたトルチェッロ島。 ヴェネツィアやリド島のかわいた盛夏を通りぬけてたどり着いたトルチェッロの古い教会で、著者が聖母子のモザイク画に出会う場面がある。 神秘的な静謐にみちているだけでなく、(わたしの読み落としでなければ)ほかの作品ではあまり書かれることのない、著者自身の信仰をかいま見ることのできる美しい文章だ。 「ザッテレの河岸で」は、コルティジャーネとよばれた高級娼婦たちをめぐる、やや長めの随想。 小説的な文体で、テーマの核心にむけ著者が一歩ずつ近づいてゆくさまが描かれる。 「Rio degli incurabili(なおる見込みのない人たちの水路)」というふしぎな文字に著者が目をとめるところから、随想は書き起こされる。 その場所にはむかし、なおる見込みのない病気、つまり梅毒にかかった娼婦たちを収容するための病院があったのだ。 紆余曲折を経て、著者はその病院が形を変え、今もヴェネツィアに存在することを知る。 それらしき建物を探し当て、高い塀の周りを歩き回るが、入口がどうしても見つからない。 とうとうあきらめた著者はザッテレの河岸に出て、ある風景を目にする―― * 運河と細い路地が入り組んだせせこましい町並みを抜け、河岸に出たときの、ふいに視界がひらけ、同時に心が世界にむけて広がっていく感じ。 そのすがすがしさを、著者は完璧な文体で読む者に伝えてくれる。 これから先、わたしはこのラストシーンを思い出すたびに、できることなら須賀敦子さんの書く小説、あるいは宗教観により深くふれることのできる文章を読みたかった、と身勝手な願いに胸を焦がすことをとめられないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.03 11:35:24
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