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カテゴリ:読書日記
メイ・サートン「独り居の日記」を読む。 メイ・サートン(1912-1995)はベルギーに生まれ、アメリカで生涯を過ごした詩人、小説家、随筆家。 心に残るのは、たとえばこんな一節。 「何もしない日がどんなに重要であり、日記の数行も書かず、 何も産み出すことを期待しないことが時時どんなに大切であるかを、私は忘れがちである。 (中略) 精神(サイキ)に対して私たちのできるもっとも貴重なことは、 時折り、それを休ませてやり、遊ばせてやり、光の変化する部屋の中に生かしてやり、 何かであろうとつとめることも、何かをしようとも、いっさいしないことだ」 「自己表現に巧みなほど、言葉はより危険になる。 真実を伝えるためには、できるだけ正確で慎重でなくてはならない」 (「独り居の日記」より) * 駅舎に併設された小さな図書館の片隅で、 彼女の円熟期の日記「海辺の家」を初めて手にとった日のことは忘れない。 外は小雨が降っていて、 わたしは砂漠に不時着したパイロットが水を欲するような切実さで、 創造と孤独についての言葉を必要としていた。 「わが身を縛る、つまりコミットするというよほど大きなリスクをとることなしに、 われわれはどうして根を見いだすことを希望できるだろう。 見た目には冒険的にも危険にも見えるかもしれない、漂い浮かぶ根無し草の生活よりも、 はるかにリスクの大きなコミットメントなしに。 愛にしても、仕事にしても、宗教にしても、 それに身を捧げると誓って飛び込むということには、 根無し草でいるより大きな勇気が要求される」 「孤独は長くつづいた愛のように、時とともに深まり、 たとえ、私の創造する力が衰えたときでも、私を裏切ることはないだろう。 なぜなら、孤独に向かって生きていくということは、 終局に向かって生きていく一つの道なのだから」 (「海辺の家」より) * メイ・サートンの日記には、求めていた言葉のほとんどすべてがあった。 書くこと。暮らすこと。女であること。ひとりであること。ふたりであること。 あまりの豊かさに、一度めはむさぼるように読み通してしまい、 二度めからようやく、落ち着いて言葉を味わえるようになった。 以来、何度となく借り出しているが、 読みすすめるほどに味わいぶかく、読み返すごとに新しい発見がある。 生涯の友人に引き合わせてくれた、この町の小さな図書館に感謝。 ※メイ・サートンの日記と著作に関しては、こちらに詳しい案内があります。 「海辺の家」は絶版のようです。 古書店や図書館でお探しください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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