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カテゴリ:読書日記
連休は、くまの実家へ。 青森まで車を飛ばして海鮮丼を味わったり、温泉で手足を伸ばしたり、居酒屋でくま両親としみじみ語り合ったり、のんびりした時間をすごしてきました。 結婚してからの二年間はわたしにとって、「妻とは」「嫁とは」「女とは」こうあらねばならない、という自分の中の思い込みを一枚ずつ脱いで、自由になる作業でもあった。 自分を縛っていたのは完全にわたし自身で、そのために、周りの人たちがわたしに向けてくれるぬくもりや親しみを素直に受け取れないこともあった。 けれど、勇気を出して飛び込んだら、どれほど多くのものが自分に与えられていたか、ようやく気づくことができた。 立場を超えて、ひとりの人間として相手と向き合うことができるようになった。 みんな手を差し伸べて、わたしを待っていてくれたのだ。 梨木香歩「村田エフェンディ滞土録」を読む。 物語は19世紀末のトルコ、スタンブールで幕をあける。 マルモラ海をのぞむ大きな屋敷に、主人公の日本人、村田をはじめ、国籍もさまざまな5人(と1羽)が暮らしている。 百年前のトルコの雑多でのんびりした雰囲気が、時折くすりと笑いたくなるような、味わいのある文体で描かれる。 語り手の村田は武家出身の学者なのだが、その生まじめさやつぶさな観察眼があまりにもリアルで、梨木香歩の創作だということをうっかり忘れてしまうほど。 いったいどんな取材をしたら、自分が生きたこともない時代の異国の風景を、こんなにも生々しく描くことができるんだろう。 単なる知識のられつではない、生身の人間の感覚が、行間でたしかに息づいている。 屋敷には、この世ならぬ者どもも集まってくる。 さまざまな宗教の神々や、古代びとの気配。 屋敷の住人たちは、それら目に見えない存在にも寛大だ。 なんだかんだと言い合いながらも、見えないものに敬意をはらい、理解しきれないものを受け入れる大らかさを持っている。 このあたりの魅力は「家守綺譚」に通じるものがあるな、と思っていたら、最終章の前半、「家守」ファンには嬉しいおどろきが待っている。 うわあ嬉しいと思っていたら、さらなるおどろきが。 ほんの数ページで、物語の意味ががらりとひっくり返ってしまう。 あまりのことに言葉をうしない、屋敷の持ち主であるディクソン夫人から村田に宛てられた手紙を、三度くり返して読む。 それからもう一度最初に戻って、料理人のムハンマドがオウムを拾うくだりから読み始める。 一回目は笑って読んだ文章に、二回目は目頭が熱くなる。 何気なく通り過ぎた時間こそかけがえがないのだという思いがこみ上げて、何だか空を見上げたくなる。 単行本では見返しにも記されているギリシア人、ディミィトリスの言葉が、今さらながら胸の奥でずんと重みを増す。 「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない…」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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